大辻炭鉱の歴史 (追加分) |
『 炭鉱王・・貝島太助翁成功談-M.36- 』
『 香月(大辻)小学校史-S.50- 』の (大辻炭礦七十年史)より
貝島・大辻炭鉱の歴史-( 明治29年〜昭和43年
)-を抜粋しました
大辻炭鉱の各坑口の変遷 (斜坑・竪坑) |
青は大辻炭鉱の明治時代の各坑口で、赤は大正・昭和時代の各坑口です---(位置の目安としては、笹尾川・黒川・岩崎駅・香月駅・吉祥寺.等) |
初期の運炭馬車軌道と「川ひらた」の 積込場、エンドレスロープの運炭軌道、鞍手軽便鉄道 (T.4〜S.29)の路線も確認できます |
運炭馬車軌道のレールには、当初は薄鉄板を張り付けた松の角材が使用された(木道--貝島太助の進言) |
石炭運搬用・川ひらたの所有数--250〜300艘--(若松港往復に3〜7日位) |
(香月小学校・郷土資料室) 貝島・菅牟田炭坑の馬車軌道と、容量八百斤の木製炭車 |
****************************** 明治35年−大辻炭山 (大辻礦山?) 位置 大辻炭山は第一大辻・第二大辻(香月)並に第一・第二・第三白岩の五礦の総称にして、筑前國遠賀郡の中央に位し 礦区坪數 採掘特許面積---百九十四萬四千二百九坪(五礦区合併坪數) 發見及沿革 發見の時代は詳ならず、明治十二年帆足義方と云へる人、香月礦を開鏧し採炭に従事せしも礦業未だ幼稚の時代に属したれば 出炭高 明治三十年度--73,869噸、明治三十一年度--218,566噸、明治三十二年度--156,487噸 礦床の性質 炭層は五層より成り、上層を本石層と云ひ(厚三尺・第二白岩礦にて採掘)、次を大根土炭、次を名前層と云ひ(厚三尺五寸・大辻及香月礦にて採掘) 採掘 開鏧の方法は、炭層の走向に直角に斜礦を穿ち、本卸に沿うて蒸気礦道を設け、七十間毎に左右片盤を附し軌道を布設す、採炭法に二様あり 支柱法 坑口附近は煉瓦を以て疊み、其他は松材を以て枠を組み、天井並爾壁に厚三寸以上の板を以て支へ亦は井桁積をなす 通気法 各礦共横坑より吸入し、竪礦に吐出して、自然に疏通せしむ 点燈法 点燈は凡てデブイー亦はグラニーの安全燈を使用す、第二大辻香月坑には発電機の装置あり、坑外各所に電燈を設置す 礦道延長 各礦本卸の延長並に竪礦の深さ左の如し 礦内外の 礦内主要の礦道には軌道を布設し、容量八百斤入木製の炭車を片盤より人力を以て運搬し、本卸捲立において炭車十六函宛連結し 出入坑道 礦夫を坑内に出入せしむるには凡て人道横礦より出入せしめ、捲場礦道と兼用の場合には五十間毎に避難所を設けたり 事務員及 大辻礦--三十九人--千百十三人--計千百五十二人、香月礦--六十八人--千百二十人--計千百八十八人 販売手続 販売手続は三井物産合名會社に託し委託販売の法を執れり 大辻炭鉱の各坑口 明治35年--第一大辻炭坑--(M.30〜M.36) 明治35年--第二大辻香月炭坑--(M.29〜M.39) 長津村大字中間---黒川口まで軌道を敷設、末期はエンドレス 香月・大辻小学校の南側---柴谷積込場まで複線軌道を敷設、百尺煉瓦煙突 明治30年--第三大辻中間炭坑--(M.29〜M.37) 明治40年--第一白岩坑--(M.32〜M.40) 長津村大字中間---堀川口大橋まで軌道を敷設、川艜-91艘 香月村---柴谷積込場まで軌道を敷設 明治35年--第二白岩坑--(M.34〜M.38) 明治40年--第三白岩坑--(M.35〜M.40) 香月村浦田---柴谷積込場まで軌道を敷設 長津村大字中間---黒川積込場まで軌道を敷設 明治40年--大辻第四坑--(M.40〜M.43) 明治40年--大辻第四坑・分坑--(M.40〜M.43) 柴谷積込場まで軌道を敷設--M.42・エンドレス---M.43・譲渡⇒佐藤高江坑 笹尾川積込場まで軌道を敷設---M.43・譲渡⇒佐藤緑坑 明治40年--岩之元坑--(M.37〜S.20)--(後の三四尺坑) 高江坑の新斜坑(名前坑口)--(S.38〜S.43)--傾斜20度 柴谷積込場まで軌道を敷設---M.41・香月線(中間〜香月)が開通 三坑--排水専用--(S.06〜S.43) 緑坑--排水専用--(S.08〜S.43) 新大辻坑--(S.20〜S.39) 大辻草丈本卸(新手三坑)--排水専用 (香月小学校・郷土資料室) (
坑名に間違いがあれば、ご連絡下さい---鮮明な写真を探しています )
香月・上津役及長津村に跨る一大礦区なり、帆柱山・尺嶽相連りて本礦区の東南に聳へ
金水川は礦区の南端を西流して遠賀川の支流堀川に合す、礦所より九州鐵道筑豊線中間驛を距る僅に壹千貮百間なり
明治十八年礦内出水の為め中止せり、爾来礦主の変更ありて其儘休業せしが、明治二十九年五月本社の所有に帰し
併せて第三大辻礦・三拾七萬六千五拾四坪を買入れ、九州鐵道中間驛に至る運炭道路を改造し、仝年七月香月礦は従来の竪礦
を使用して排水工事を
施すと仝時に城ノ前礦を開礦し、仝年十月十五日更に香月本礦の
開鏧に着手し百間餘にして着炭し、卅年三月工事全く落成せり
是に於て益々規模を擴張し、仝年六月隣礦区第一大辻礦・五拾六萬三千五百六拾二坪を買入れ、通風及排水の為三十二年二月第一大辻朝霧竪礦
を開鏧し
三十三年三月弐百八拾弐尺にして着炭せり、仝年二月第一白岩礦を開鏧して名前炭を採掘し、更に仝年七月第二白岩礦 を開鏧して本石炭採掘に従事し
三十四年十月外扇竪礦
開鏧に着手し、三十五年七月弐百四拾九尺にして名前層に着炭せり
是より先き三十五年一月元・長津礦と称する捨弐萬八千壹百参拾六坪及元・深坂礦八萬四千四百六拾七坪を買収して第三白岩礦
と称せり
而して第二大辻香月礦に、排水及通風の為め弐百五尺の竪礦
を開鏧し、本年一月工事を完成せり
爾数氣罐の増設・排水用喞筒の据付等諸般の設備全く整い盛に採掘するに至れり
明治三十三年度--155,609噸、明治三十四年度--222,680噸、五年間の合計--827,680噸
次を大底炭層と云ひ(厚二尺・同礦にて採掘)、次を四ヘダ炭層と云(厚五尺・未だ採掘せず)、次を名前炭層と云ふ(厚二尺六寸・第一及第三白岩礦
にて採掘)
就中大根土炭其質最も良好なり、走向百四度、九度の勾配を以て東北に向て傾斜す
開鏧法
一は残柱式
に依り、本卸及片盤礦道の左右は幅十二間長十五間の炭柱を存し、礦道は巾九尺乃至十二尺とし
切端は巾九尺にして三間乃至五間の炭柱を存せしむ、第一・第二・第三白岩礦及第二大辻礦の一部 は此の採掘法に拠る
一は長壁式にして、坑道の左右巾十二間乃至十五間の残柱を存し其他は悉く掃掘なす、大辻礦及香月礦の一部は此採掘法に拠る
礦岩にはダイナマイトを使用して開鏧せり、其塊炭と粉炭との割合は塊七粉三の割合なり
大辻本礦--五百間、朝霧竪礦--二百八十尺、外扇竪礦--二百四十九尺、香月礦--六百五拾間、第一竪礦--百二十尺、第二竪礦--二百五尺
白岩一礦--三百間、竪礦--七十二尺、白岩二礦--弐百間、竪礦--七十尺、白岩三礦--弐百五拾間、
運搬
捲場機械に依りて礦外に搬出す、而して第一大辻礦
は直にエンドレスロープを以て外扇選炭場に送り、精選して更に炭車に積み替ヘ馬匹を以て
筑豊線中間驛に運搬し鐵道に積込み、門司亦は若松に搬出す、中間驛より門司迄廿哩廿六鎖、若松迄九哩廿鎖なりとす
其他の各礦は、礦口より捲揚げ直に選炭場に送り、精選の上炭車に積み替へ馬匹を以て川端に送り
之より艜(ひらた)船に積込み、遠賀川の支流堀川を下りて若松に運送す
其距離左の如し
大辻礦--礦所より選炭場迄(エンドレスロープ)--四百一間、選炭場より中間驛迄(運炭車道)--千百間
香月礦--礦所より川端積場迄--千五百間、白岩一礦--礦所より川端積場迄--千五百六十間
白岩二礦--礦所より川端積場迄--千九百間、白岩三礦--礦所より川端積場迄--四百三十四間
中間驛より若松迄--九哩廿鎖、香月川端積場より若松迄--五里半
労働者の数
白岩一礦--四十二人--五百五十人--計五百九十二人、白岩二礦--三十四人--四百二十人--計四百五十四人
合計--百八十三人--三千二百三人--三千三百八十六人
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大辻炭鉱の年表 ( 大辻炭礦七十年史に加筆 ) |
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年 次 |
月 |
事 項 |
記 事 |
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明治 12年 |
3月 |
帆足義方---馬場山炭坑を開鑿 | 貝島太助、鉱区の選定・開鑿に参加 (主任技術者) | ||
明治 12年 |
10月 |
帆足義方---香月炭坑を開鑿 |
貝島太助、鉱区の選定・開鑿に参加 (主任技術者) |
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明治 15年 | 貝島太助---香月炭坑で一山請負掘りの契約 | (〜18年) 財を蓄え、大之浦に鉱区を取得し開鑿する | |||
明治 17年 |
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香月炭坑、出水のため事業一時中止 |
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明治 24年 |
8月 |
筑豊線 (直方〜中間〜折尾〜若松)の開通 | |||
明治 29年 |
5月 |
貝島太助---香月炭坑を買収し---第二大辻香月炭坑と称す |
明治39年6月--操業廃止 |
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〃 |
7月 |
香月村に城ノ前坑を開鑿 |
明治39年6月--操業廃止 |
||
〃 |
10月 |
香月炭坑の新坑(本坑)を開鑿---(香月・大辻小学校の南側) |
明治39年6月--操業廃止 |
||
〃 |
12月 |
長津村の中間炭坑を買収し---第三大辻中間炭坑と称す |
明治37年10月--操業廃止 |
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明治 30年 |
2月 |
免囚保護所を設け、免囚175名を収容就業さす |
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||
〃 |
6月 |
長津村の大辻炭坑を買収し---第一大辻炭坑と称す |
明治36年1月--操業廃止 |
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明治 31年 |
5月 |
貝島鉱業合名会社の設立 |
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明治 32年 |
2月 |
香月村に第一白岩坑を開鑿 |
明治40年9月--操業廃止 |
||
〃 |
〃 |
第一大辻坑で坑内火災発生、排気の為に朝霧竪坑を開鑿 |
明治36年1月--操業廃止 |
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明治 34年 |
7月 |
香月村に第二白岩坑を開鑿 |
明治38年5月--操業廃止 |
||
〃 |
10月 |
長津村に外扇竪坑を開鑿 | 明治37年10月--操業廃止 | ||
明治 35年 |
1月 |
長津村の長津坑を買収し---第三白岩坑と称す |
明治40年9月--操業廃止 |
||
〃 |
〃 |
香月炭坑の排気の為に、南原竪坑を開鑿 | 明治39年6月--操業廃止 | ||
明治 37年 |
5月 |
香月村に岩之元坑を開鑿---(後の三四尺坑) |
昭和20年9月--操業廃止 |
||
〃 |
10月 |
給水バックを構築し、社宅に給水開始 |
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明治 38年 |
5月 |
香月村に椋枝坑を開鑿 |
明治40年9月--操業廃止 |
||
〃 |
9月 |
香月村に本事務所の建設 | |||
明治 39年 |
2月 |
香月村に岩之元・人道竪坑を開鑿 |
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明治40年 |
岩之元坑を第一坑、椋枝坑を第三坑と改称する | ||||
〃 |
9月 |
香月村の高江炭坑を買収し---第四坑と称す |
明治43年--佐藤慶太郎に売却 |
||
〃 |
12月 |
貝島鉱業株式会社の設立 |
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明治 41年 |
1月 |
香月村に第二坑を開鑿 | |||
〃 |
6月 |
大辻病院の創設 | 大正5年--大辻病院の新増築 | ||
〃 |
7月 |
香月線(中間〜香月)の開通 | |||
明治 42年 |
2月 |
岩之元坑〜第四坑間に、運炭エンドレス線の設置 | |||
〃 |
12月 |
香月村に第四坑・竪坑を開鑿 | |||
明治 45年 |
3月 |
香月村に高江竪坑を開鑿 | 大正2年7月--竪坑ゲージの建設 | ||
〃 |
11月 |
変電所の建設、保育所の設置 | 削岩用ドリルの使用開始 | ||
大正 01年 |
12月 |
香月村に高江坑を開鑿 |
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大正 02年 |
4月 |
ジンマー式・選炭機の設置 | コールカッター1台の使用開始 | ||
大正 05年 |
11月 |
貝島太助・死去 | |||
大正 07年 |
4月 |
大辻小学校の設立 | |||
大正 08年 |
6月 |
炭券制度の禁止 | |||
〃 |
10月 |
貝島合名会社の設立 | |||
大正 10年 |
2月 |
大辻岩屋炭礦株式会社の設立---(貝島鉱業株式会社より分離) | |||
大正 11年 |
5月 |
選炭機の増設、11月--ブランケット式・水洗機の設置 | |||
大正 12年 |
3月 |
岩之元坑で四尺坑内火災 | |||
大正 15年 |
1月 |
選炭場に水洗機3台の設置 | 4月--裁縫教授所の設置 | ||
昭和 03年 |
8月 |
坑内ベルトコンベアの使用開始、長壁式払方式の採用 | |||
昭和 05年 |
6月 |
第二坑〜本坑・積込場間に、エンドレス線の設置 | |||
昭和 06年 |
3月 |
鉱員の人員整理 | 4月--職員の人員整理 | ||
〃 |
8月 |
貝島炭礦株式会社の設立---(合併) | |||
〃 |
12月 |
ボタ捨用・スキップ捲の設置---(ボタ山の開始) | 12月--コールピックの使用開始 | ||
昭和 07年 |
2月 |
エジソン電気安全灯の使用開始 | 昭和12年--HL式安全灯の使用開始 | ||
昭和 09年 |
11月 |
山神宮の建立 | (以前・杉守神社) | ||
昭和 11年 |
9月 |
中央共同浴場の設置---(大辻病院の東側) |
保養所の設置 |
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昭和 13年 |
12月 |
上園社宅の竣工---(122棟・244戸--6畳+4畳半+台所+便所) | |||
昭和 14年 |
12月 |
香月町畑に、山の家を設置 | |||
昭和 15年 |
11月 |
大辻・岩屋炭礦を、貝島第二鉱業所と称す | 昭和17年--勤労報国隊・205人 | ||
昭和 19年 |
1月 |
高江坑・名前坑内火災、死亡5人 | 4月--学徒動員・直方商業学校・約50人 | ||
昭和 20年 |
2月 |
新大辻坑を開鑿 | |||
〃 |
9月 |
大雨と枕崎台風で、全坑水没 |
三坑・緑坑--遠賀炭田防水組合(近隣炭鉱各社)で排水 |
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昭和 21年 |
2月 |
労働組合の結成 | 鉱員社宅の新築・改築 (永居町・共栄町等) | ||
昭和 22年 |
1月 |
(〜24年?頃)、中谷坑・杉守坑の請負掘契約 | |||
昭和 23年 |
2月 |
新城下坑を開鑿 | |||
〃 |
4月 |
大辻小学校の町営移管---(香月小学校) | |||
〃 |
7月 |
譲渡・分離紛争 (22年12月〜)の結果、大辻礦業所 の発足 | 竹内礼蔵・貝島太市の共同経営 | ||
昭和 24年 |
3月 |
切羽に鉄柱の使用開始 | 退職金協定の締結 | ||
昭和 25年 |
7月 |
新大辻坑の出水 | (24年・九共斗--26年・中労協) | ||
〃 |
9月 |
大辻炭礦株式会社の設立 | |||
昭和 26年 |
9月 |
新大辻坑・三坑・緑坑の水没 | 三坑・緑坑--排水専用 | ||
昭和 27年 |
11月 |
佐賀県・橘炭坑の起工式 | 昭和33年--閉山 | ||
昭和 28年 |
6月 |
緑坑・三坑の出水 | |||
昭和 30年 |
8月 |
新城下坑と新大辻坑の坑内貫通 | |||
昭和 32年 |
7月 |
高江坑・4捲右24片でガス爆発 | |||
〃 |
12月 |
高江坑に人車設置 | |||
昭和 35年 |
3月 |
第二坑の終掘、高江坑に配転 | |||
昭和 36年 |
3月 |
新大辻坑で坑内火災、死亡26人 | 昭和39年10月--操業廃止 | ||
〃 |
11月 |
カッペ採炭法の開始---(鉄製の柱・梁の使用--油圧式.等) | H型コンベアやロッカーショベルの使用開始 | ||
昭和 38年 |
5月 |
カッター・ローディングの使用開始 | |||
昭和 39年 |
12月 |
ホーベルの使用開始 | |||
昭和 43年 |
4/30 |
大辻炭礦・閉山 | ( 昭和40年--岩屋炭鉱・閉山 ) | ||
昭和 60年 |
3/31 |
香月線の廃止 | |||
平成 19年 | 12月 | 選炭場ホッパー跡・原炭ポケット跡・変電所跡が解体される | 大辻炭鉱の遺構が消滅 | ||
明治22年-香月村(香月村+楠橋村+畑村+馬場山村)、昭和6年-香月町、昭和30年-八幡市、昭和38年-北九州市 |
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明治22年-長津村(中間村+岩瀬村)、大正11年-長津町、大正13年-中間町、昭和7年-中間町(中間町+底井野村)、昭和33年-中間市 |
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昭和42年---検身所・進発所 |
昭和42年---大辻炭鉱の人車 |
昭和42年---変電所前から見た、左に選炭場、中奥に原炭ポケットの上部、右奥にボタ山 | |
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昭和42年---原炭ポケットの上部、右上にチップラー(だるま)がある | |
昭和42年---選炭場のボタ積込所 |
昭和42年---ガソリンカーとトロッコ(新大辻鉱⇔選炭場⇔ボタ山) |
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新大辻坑の坑口跡--(S.20〜S.39) |
新大辻坑--(S.20〜S.39)--右下の池は現在もある |
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豆炭工場跡--場所は未確認 |
大辻販売店の店内風景 |
昭和42年---杉守ボタ山から見た香月小学校と、左に上園社宅 |
「香月線と大辻炭鉱の遺構」「大辻炭鉱・岩崎炭鉱の遺構」
「大辻炭鉱と香月町
」
「日炭高松-中鶴炭鉱-大辻炭鉱」
「明治39年-遠賀郡の炭鉱」
「中鶴炭鉱の歴史-追加分」
「中鶴炭鉱の歴史-追加分-2」
「中鶴炭鉱の歴史-追加分-3」
昭和30年代の日炭高松炭鉱 |
第三鉱 |
二島鉱 |
更新日--'06/08/08