遠賀税務署・三好炭鉱本社・三好中央病院 


『遠賀中間医師会六十年史 -S.44-』より

明治43年頃の折尾駅附近、二階建て建物の変遷が判明しました--(H.18-11/7追加)

(M.29) 芦屋・遠賀税務署⇒ (移築・M.35) 折尾・遠賀税務署⇒ (移築・M.43頃)三好炭鉱本社⇒ (移築・S.06)三好中央病院⇒ (S.09)
日炭中央病院 


( 写真と情報の提供を、お願い致します )


遠賀税務署・三好炭鉱本社の変遷 

  

 

明治43年頃の折尾駅と三好炭鉱本社 

 中央上に鷹見神社、右上は東筑中学の校舎です  鷹見神社の手前の二階建てが、三好炭鉱の本社建物です

洋風の二階建で、屋根には2本の飾り煙突(?)が見えています  大正の中頃には遠賀公会堂が、三好炭鉱本社と鷹見神社の間に建設されます 

左端に旧・折尾警察署が確認できます、その右は折尾村役場だろうか??  

三好炭鉱本社の前には、遠賀銀行(株)折尾支店(M.43〜T.9)、遠賀銀行本店(T.9〜S.2)、戦後には遠賀証券(株)本社があったようです 

折尾駅の鹿児島本線ホームには、まだ屋根がありません  大正2年には、複線が開通します 

 

二階建て建物の変遷と、三好炭鉱関連の略年表 

年 度 

主要な変遷 

記 事 

その他 

 明治??年 

 遠賀郡の収税部を芦屋町に建設 (⇒29年より、芦屋・遠賀税務署となる )

 

 

 明治22年4/01

 折尾村--遠賀郡洞南村となる--本城に村役場

 くきなみ村--本城・陣原・則松・永犬丸と5村合併

 (折尾の歴史)

 明治24年02月

 九州鉄道--遠賀川駅〜折尾駅〜黒崎駅間の開通

 

 

 明治24年08月

 筑豊興業鉄道--直方駅〜中間駅〜折尾駅〜若松駅間の開通

 

 

 明治31年02月  遠賀郡役所--芦屋町から折尾に移転  (大字・則松) (現在-八幡西勤労青少年ホーム) (T.11-郡制廃止)  

 明治35年07月

 芦屋・遠賀税務署を折尾に移築して移転 (⇒折尾・遠賀税務署となる )

 (折尾・八幡免--現・折尾八幡公園附近??) 

 (折尾の字図)

 明治36年頃

 三好徳松--別府炭坑を経営

 (島門村)

 

 明治37年

 三好徳松--頃末炭坑を経営

 (頃末・東河原・釜ヶ谷)

 

 明治37年7/01

 遠賀郡洞南村--遠賀郡折尾村と改称

 村役場を折尾に移設--現・北鷹見町??

 

 明治39年  頃末炭坑を買収--三好炭坑に改称、山鹿(大君)炭坑を買収  (頃末・東河原・釜ヶ谷)  

 明治39年08月

 折尾警察分署を折尾駅前に建設

 (折尾・末里--現・折尾保育所)

 三好徳松氏の寄贈

 明治42年07月

 折尾警察署となる

 (折尾・末里--現・折尾保育所)

 三好徳松氏の寄贈

 明治42年11月

 折尾・遠賀税務署を若松町に移転 (⇒若松・遠賀税務署となる )

 

 

 明治43年頃

 折尾・遠賀税務署跡を移築して、三好炭坑本社となる

 (折尾・左近田--現・白土医院--東筑1丁目)

 

 

 

 

 

 大正07年03月

 私立・折尾高等女学校の設立

 (折尾・木屋ヶ谷--現・県立折尾高校)

 三好セキ女史

 大正07年12月

 遠賀郡折尾村--遠賀郡折尾町となる

 町役場を八幡-はちまん-に建設

 

 大正11年06月  若松・遠賀税務署--折尾町に再移転  (折尾・八幡はちまん)  

 大正??年

 遠賀公会堂を建設

 (折尾・左近田--三好炭坑本社の東、鷹見神社の西)

 (現・妙應寺)

 

 

 

 

 昭和03年09月

 杁尋常高等小学校の頃末仮教場を建設             

 (頃末・釜ヶ谷) 校舎1棟-4教室

 三好徳松氏の寄贈

 昭和06年01月

 三好炭坑の本社建物を移築して三好中央病院を設立

 (頃末・釜ヶ谷)

 

 昭和09年04月

 杁尋常高等小学校の頃末分教場を建設

 (頃末・櫛筍) 二階建校舎1棟-16教室

 三好セキ氏の寄贈

 昭和09年07月

 日本炭礦・中央病院となる

 (頃末・釜ヶ谷)

 

 昭和11年02月  日炭中央病院の一鉱分院の建設  (水巻・吉田)  

 昭和11年06月

 頃末尋常高等小学校となる

 (頃末・櫛筍--現・頃末小学校)

 

 昭和13年  折尾警察署--庁舎の新築・移転  (折尾・八反田--旧・折尾公園の前--前・折尾署)  
 昭和13年09月  則松小学校の講堂を建設  (折尾・則松)  三好徳松氏の寄贈

 昭和15年11月

 日炭中央病院の新館を増築、第1〜3病棟の建設

 (頃末・釜ヶ谷)

 

 昭和16年02月  警察旧庁舎を解体移築して、折尾女子学園の本館となる  (折尾・笹尾--現・折尾愛真学園・記念保存・旧本館)  

 昭和19年12/8

 遠賀郡折尾町--八幡市に合併編入

 

 

  昭和24年2/07   遠賀税務署の火災--折尾警察署内に仮庁舎    
 昭和25年5/20  遠賀税務署--若松市堺町に新築し再移転    

 昭和34年11月

 日炭中央病院の新病棟を建設--病床総数220床

 (頃末・釜ヶ谷)

 

 昭和46年3/14  日本炭礦の閉山で、日炭中央病院を閉院    


 

昭和12年-- 日本炭礦中央病院の旧館部分--(芦屋・遠賀税務署⇒折尾・遠賀税務署⇒三好炭坑本社⇒三好中央病院)
右端の下部は、昭和3年に建設の頃末仮教場跡で9年以降は病室となる。 右端の上部は、昭和9年に建設された二階建ての頃末分教場⇒頃末小学校です

昭和34年に南側から見た、日炭中央病院の新館と旧館、左上に新病棟、右下は頃末小学校の一部です    

下の記事より、プールの北側は看護婦寄宿舎のようです。 この二階建ては、当初は三好炭鉱時代の事務所跡 (頃末1342番地)と推定します  
新館手前のテニスコート横の長屋は、昭和3年建設の頃末仮教場跡で、9年以降は病室になったようです   


日炭中央病院の歩み---(抜粋)---院長・土井滋 

『遠賀中間医師会六十年史-S.44-』より 

 

現在の日炭中央病院は従業員百六〇名をこえ、内科、外科、小児科、皮膚科、婦人科、放射線科、
眼科、耳鼻科、歯科の各科に加え臨床検査室を備え、その他診療所をニケ所に有する総合病院として、日炭従業員のみならず
一般市民にも開放し、当地方の衛生部門に大きく貢献しているのであるが、
昭和の初頭から今日に至るまで約四十年の間には色々な変遷があり、決して平坦な道ではなかった。
大正の終り頃から昭和の初めにかけて、筑豊遠賀に炭鉱王と言われた三好徳松という人物がいたが、彼は代議士にも出たことがあり、
この人が、水巻村一帯にかけて日炭の前身である三好炭鉱を経営していた。
当時この地方の医療機関としては、現在の保険組合の横のバレーコートの附近に、今でいう診療所があり、
一般に医局と呼ばれていた。そこには入院設備も手術室も無かったが、医師は倉恒源一氏で、
この方は現在の九大衛生学教授倉垣匡徳先生の御尊父である。
当時水巻村では唯一の医療機関であったため村医も兼ね、中々人望のある人だった。
この人の下に看護婦が三名と代診といわれる無資格の人が三名程おり、各坑に駐在して受持区域のことは大ていこの人達が処理し、
そして炭鉱の大きな外傷や難病等は大てい小倉の記念病院に依頼していた。
当時現在の中央病院の敷地は蓮池をボタで埋めたてた全くの空地で、建造物は何もない広場であり、
この広場は時に貯炭場となり、時に従業員の慰安の催物をやる場所であり、その頃から流行しだした野球のグランドともなった。
この広場を三方から囲む様に、東は現在の看護婦寄宿舎及ぴその裏の空地、北は三病棟、新病棟のあたり、
南は現在の学校下のバレーコート敷地、之等一帯に昔風の炭鉱長屋があった。
後に今の薬品倉庫の所に小学校四年迄の杁小学校の分校が立ち、之が次第にふくれて炭鉱従業員の子弟の教育の場となり、
広場は更に校庭にも利用され、勿諭、頃末小学校の無かった時代である。
さて以上の様な状況であったが、炭鉱の発展と共にどうしても医局を充実し病院を設立する必要に迫られて、
遂に昭和六年一月、三好中央病院.が設立されたのである。
当時、三好炭鉱の本社は、現在の折尾の白土医院の敷地にあり、現在の中央病院の旧館の建物を本社として使用していたのであるが、
病院設立に当り本社の建物をそっくり提供し、折尾から現在の中央病院の所に移転して病院が出来、
前記小学校の分校を病室に改造して、ここに洋風モルタル作りの二階建のハイカラな病院が誕生したのである。

そして院長として九大から横山健夫氏(現在俳句で有名な横山白虹氏)が赴任して来、
外科に横山健夫、白土寿朝の両氏、内科に倉恒源一氏、鳥井竜馬氏、中村陽三氏、歯科に田窪昇之助氏、薬剤師に木下啓二氏、
X線技師に松岡格郎氏、この他に看護婦八名、代診三名という陣容であった。
因に現在の日炭中央病院旧館の建物は芦屋町が華かなりし頃、芦屋干軒、関干軒とうたわれ、東の下関と並ぴ称せられた時に、
遠賀郡税務署が芦屋町にあり、その税務署として使用されていたのであるが、
芦屋が寂れたため税務署と共に折尾に移り、次で三好炭坑本社として使用され、更に三転して中央病院となったものである。
---(中略)---
この様にしてこの病院は診療のスタートを切ったのであるが、この病院は炭鉱従業員のみならず、広く地方民に
開放するという方針であり、今でも岡垣町あたりの田舎道に三好中央病院とかかれた掲示板にお目にかかることがある。
以上の様な状況で病院は呱々の声をあげたが、昭和八年院長横山健夫氏は都合により辞任され、
後任として白土寿朝氏が院長に就任した。
---(中略)---
所が昭和九年七月、三好炭鉱は鮎川義介氏のひきいる日産コンツェルンに買収され、
その一環として日本炭礦、高松炭鉱が生れ、これから炭鉱の近代的経営が始まることになったのである。
病院も当然、日本炭礦株式会社中央病院ということになった。
そして炭鉱の経営が変ると共に、病院も鋭意その施設の充実に意をそそぎ、初期の、(外科)白土寿朝。鈴木俊爾。
(内科)、辻岡滝之助。亀田加津彦という陣容に、九大赤岩八郎教授。武谷広教授。
更に平壌医専の武谷凱三教授の絶大なる応援を得て、九大と平壌医専より着々と各科のスタッフを集めた次第である。
即ち昭和十一.年二月には一坑分院を開設し竹下元亮、青野昇治、鈴木俊爾氏等が着任し、
同十二年四月には長谷川純氏を迎えて眼科開設、同五月には耳鼻科開設(浅原走馬氏)
翌十三年五月には坂口嘉正氏を迎えて産婦人科を開設した。更に同年六月、応召不在となった白土院長の後に
九大から八田稠氏が院長として着任するや各施設の充実は更にテンポを早め、十四年には小児科開設(日隈精一氏)二島診療所開設、
昭和十六年に皮膚泌尿器科(西脇享、加生大夫氏)放射線科(後藤隆範、藤元静雄氏)を開設、
更に歯科の嘱託制を専任制に切りかえ、病院の機構を整備し、今日の日炭中央病院の基礎がここに出来上がったのである。
---(中略)---
昭和十一年には従業員子弟優先の看護婦養成所 を設けて自分の鉱山の病院だと従業員の親近感を深めたのである。
病院は前記の状況であったが、その間会社にも機構にかなりの変動があり、
日本炭礦は昭和十二年一月・日本化学工業、同年五月・日産化学工業、同十八年四月・日本鉱業となり
昭和二十年七月再び日本炭礦となったのである。
さて昭和十年頃から終戦迄は我国は日華事変につぐ太平洋戦争で医師は相次いで応召し、
当病院でも前記諸氏の着任にも拘らず医師不足、物資不足の状況が続き非常に苦しい時代が続いたのである。
昭和十三年から十四年頃には当炭鉱にも朝鮮人労務者が沢山入山していたので、病院でも
朝鮮人医師桂範淳氏及ぴ朝鮮人看護婦数名が勤務していたこともある。

---(中略)---
さて前述の如く会社の発展と共に病院も次第に発展したのであるが、当然今までの病院では、
手ぜまになり新しく病院を改築することになり、
昭和十五年十一月に、現在の中央病院新館、(と申しても現在では二十五年の歳月で古くなってはいるが、
尚新館と呼んでいる)が落成し、引き続いて病棟が一病棟、二病棟、三病棟と出来上がった。

---(中略)---
終戦後は今まで抑圧されていた労働者も一時に開放され又占領攻策も之に加わり、
労働運動は俄かに活発となり、特に日炭労組は天下に名を売る程のチャンピオンになったのであり、
労組の山本経勝氏は参議院議員に当選する程であった。
然かも会社は地理的条件に恵まれているのと相俟って社業は著しく発展し、
従業員も一万人近くに及ぶ大炭鉱となり、
これにつれて、病院も発展し、各科共医師看護婦共に充実し、一坑分院の他に三鉱分院、四坑分院、二島診療所
相次いで増設し医師の数も三十数名に及びその他歯科医師六名、薬剤師八名という大世帯となったのである。
その間、一坑分院は老朽化激しく、昭和二十六年改築移転したし、
又本院でも昭和二十五年、皮膚科・婦人科・手術場の大改築を行なった。
---(中略)---
当病院でも病棟の老朽化著しく、遂に新しい近代的な病棟を建築することになり、
この三十四年十一月に新病棟が出来上がったので、当病院も病床数ニニ○という事で飛躍的に増床したのである。
さてかくの如く今から張り切って頑張ろうとしている矢先、
「栄者必衰」の理の示す如くこの頃から石炭産業は世界的にエネルギー資源変革の嵐にもまれて、
斜陽産業と化するに至ったのである。かくて石炭業界には合理化の嵐が吹きまくり、之に反対する労働組合との間に
激しい争いが捲き起こったのである。日炭においてもその例に洩れず昭和三十六年には合理化の問題に関し会社と組合の間に
一大争議がおこり、遂に一〇〇日間に及ぷストライキという不幸な事態がおこった。
かかる争議のもとに合理化は遂に達成出来なかったし、又この争議を契機として今まで炭鉱界にその雄を誇った日炭も
社業は急速に悪化し、会社組合共に大きな痛手を蒙りお互いに得る所は何もなかったのである。
思えば全く馬鹿な喧嘩をしたものであり、感情の趣く所、果しなく争い、収拾の策を知らず、自らの首を締める結果となってしまった。
然しその後お互いに冷却期間をおき、合理化も次第に逮成されたが、しかも昭和三十九年に至るや
日炭の施業案不認可という問題がおこり、会社、組合共に、否応なく一坑及び三坑下層の閉山という事態に追い込まれた。
そして、それに伴って、一坑分院の閉鎖、四坑分院の閉鎖、三坑、二島診療所の縮小 ということになった。
只不幸中の幸いと申すか、施業案不認可という困難な問題があった代りに、
若松市西北部に有力な炭層をかかえる日炭は新しいビルド鉱として若松鉱業所が発足し、之には国家の大きな援助もあり、
現在着々としてビルド鉱が達成されつつあり、之は予定の昭和四十二年度末を待たずに完成される見通しであり、
流石に困難の多かった中央病院にも前途に明るい見通しが出来、
当地方住民の福祉に大いに貢献することであろう。
---(後略)---


( 昭和46年3/14--日本炭礦の閉山で閉院となる )

歴代院長--三好中央病院 (S.6/1〜S.9/7)--日本炭礦中央病院 (S.9/7〜S.46/3)
横山健夫 (S.6/1〜S.8/?)、白土寿朝 (S.8/?〜S.12/6)、
八田稠 (S.12/6〜S.21/5)、日隈精一 (S.21/5〜S.33/1)、林昌隆 (S.33/1〜S.34/11)、土井滋 (S.34/11〜S.46/3)

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更新日--2013/03/11





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