昭和30年頃の日炭高松新聞

( 九州大学・記録資料館所蔵 )

日本炭礦(株)・遠賀鉱業所 時代の日炭高松新聞

( 九州大学・附属図書館・付設記録資料館所蔵の日炭高松新聞より )


会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)(S.12-2)日本化学工業(株)(S.12-12)日産化学工業(株)(S.18-4)日本鉱業(株)(S.20-7)日本炭礦(株)


( 日本炭礦から会社名は変わりましたが、新聞の名称は『日炭高松』で変わっていません )


日炭高松新聞と日炭高松・第二鉱のルーツ

昭和09年の日本炭礦・遠賀鉱業所の設立から、二十周年目にあたる昭和29年の第329号に、
日炭高松・第二鉱の開設・用地買収等の記事があります

第329号--昭和29年01月20日発行 

高松炭鉱二十年の足跡--会社発展の陰に--山本敏夫(頃末在住者) 

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私が頃末で呱々の声をあげて間もない明治35年頃、三好鉱業の手により高松が開発され、
まもなく起きた日露戦争による石炭景気で三好坑は躍進をとげ、
現在の中央病院前から矢野副所長宅前の曲川淵まで、最初は馬車、つぎはエンドロスと運搬系統も次々と変転し、
最後には現在の専用鉄道が敷設されました。
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昭和 9年三好鉱業から高松が日炭の前身会社に譲渡せられるにおよんで、
高松炭鉱は近代資本の手により大変革がおこなわれることとなり、まづ近接地の大買収が始められました。
それがため私達は会社と郷土水巻発展に協力し、
先祖代々から受け継いできた山林や田畑の買収に応じ、高松現在の基礎的準備が出来たのであります。
それから間もなく二鉱の鍬入式や当時九州一と称された選炭機の据付、
従業員社宅の建設などが、目をみはるようなスピードでおこなわれ、
それまで三好さんの旧式な炭鉱をみなれてきた私達にはすべてが驚嘆することばかりでした。
思えば開鉱いらい20年、当鉱の発展について貧農水巻村は遠賀の中心地水巻町となり
往時を追想し感慨無量なのは私一人ではないと思います。
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さてここで青年時代をふりかえり、鉱業所関係の土地の変遷ぶりを回顧してみましょう。
まづ現在の運輸課事務所から中央倉庫、二鉱繰込場、宮ノ下社宅、
物資課事務所をつなぐ所謂鉱業所の眼下一帯は、全部昔からの立派な水田でした。
特に宮ノ下社宅の下は一段一段と田が高くなり、今の宮ノ下3丁目あたりには池があり、そこから灌水していました。
その頃、旱魃の年など池は枯渇し稲が枯れるので、
頃末の農民はこの土地を耕作する者もせぬ者も総出動で水車を出し、
何十台の水車で現在の鉱業所下の川から水を汲みあげ、段々と上位の田に水を送り、三日ぐらいかかって
最上位の田まで送水して、稲の枯死を防いだことを今でも思い出します。
エブリ社宅はウッソウたる山林の中に兎道があり、男でも真昼間でさえ一人では通るのに薄気味の悪い処でした。
中央区や古賀、梅ノ木も埋立てて社宅が出来るまでは広々とした美田でした。
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今度はもっと遡って子供時代のことを追想してみましょう。
私の家の隣りにある伊豆神社は大正3年ごろ改築したのでありますが、改築前は石段下に今も繁っている楠の大樹に、
山づたいや木づたいに猿の群れが飛んできて、楠の実を食べていたものです。
その頃に頃末から折尾に行くのには、
二尺ぐらいの小道から畔づたいに鯉口の三角池に出て、また山づたいに現在の折尾劇場の付近に出ていたものです。
現在国道を東から西から終日何千台かの自動車が疾走するのを見る時、
当時だれが今日の水巻を考えたでしょうか。
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現在鉱業所のある高台の敷地は私達数十戸の墓地跡で、私方の墓は丁度玄関前にありました。
これも会社側の要望で今の丸山墓地に移転して協力しました。
ここに部落が会社に協力して山のような貯炭を整理した一例があります。
昭和16年といえば会社も一通りの整備が完了し採掘条件も最良ではなかったかと思いますが、
その頃支那事変の影響で貨車廻りが悪く、鉱業所下に貯炭の山が築かれていました。
そこで会社から部落にこの石炭を貨車積みするのに応援の依頼があり、私は町内会長を務めていたのでこれに応じ、
毎日部落民が交代で出動して、真っ黒になって働いたことがありました。
この勤労奉仕がすんでから私たちは時の佐藤事務課長や幹部の方から大変感謝され、
それ以来会社と部落とが非常にスムーズに何事も運ぶうになりました。
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今水巻町には国鉄駅や郵便集配局の誘致など切実な問題が残されていますが、
それと同時に着手してもらいたいものに明神ヶ辻の公園化があります。
明神ヶ辻というのは頃末背後の通称砲台山のことで、この山は山林の大部分が伊豆神社の社有地でであり、
一部分の民有地を買収して雑木をばっさいし、良木を残し桜を植えこみ、
自動車の登れる道路を完成したならば、天然の実に立派な公園が出来得ると思われます。
さすれば頂上から西は玄界灘を東は北九州の重工業地帯を一望に眺めえて、
水巻町民、特に高松炭鉱従業員の最適の憩いの場所となりましょう。
最後に高松発展の陰には、地元民の土地提供という協力があって今日の基礎が築かれたものであり、
今後とも会社と地元のゆるぎない連繋を希望いたします。
 
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遠賀鉱業所の初代所長であった興梠友兼氏の『忘れ得ぬ其日』にも、
昭和09年当時の記述があります

昭和9年当時の杁(えぶり)地区と宮ノ下地区 

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今の第二高松炭坑の坑口附近は狭隘な谷合で、小さな水田が一列あった。
之を現在の様にするには、元の地形の約二倍の広さに、切開き、埋立てたのである。
今の杁(えぶり)社宅のある処は、大きな松の森林で被ふわれ昼尚暗き谷合で、
其の森林を通って遠賀川沿岸の村に通ずる細道があった。
空が全然見えない様な密林であったから、夏尚冷気を覚え、淋しい処で女子供等は
一人ではめったに通らない位、薄気味の悪い処であった。
坑口とは、今の社員倶楽部のある峠を隔てて反対側になるから、
勤務時間を放れた後の生活には尤も適当だという理由もあって、此窪地一帯を社員の中央社宅地に選定した。
今の選炭場に隣る、倶楽部の下部の社宅は、所謂杁社宅を建設する前に建てたのである。
茲も松林のジャングルで、特に蝮の多い処と称せられていた。
--P.159--  

『忘れ得ぬ其日』より抜粋--興梠友兼著--(非売品・昭和45年) 

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日炭高松新聞と高尾区社宅のルーツ


『日炭高松炭鉱の記憶』のHP作成の当初から、私の生まれた高尾区社宅の名前のルーツを調べてきましたが、
昭和31年の第350号に、高尾区社宅の土地のルーツが書かれています

第350号--昭和31年04月01日発行

日炭高松新聞--高松夜話--高尾区の巻 

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中央病院横の坂道を登りつめると、小さな盆地の中に炭住街が一望に見出される。
なごやかな雰囲気につつまれた高尾は、
明治三十年頃は断崖絶壁の谷底で、此処への登り口は「釜ヶ谷」といい、
通称兎道と言われるほど滅多に人がのぼることがなく、峠から下を見ると谷底になっていた。
この峠を浅川の村田義景さんが所有していたものを、
薪に不足していた水巻村頃末区が区費で購入して、雑木を切り燃料にしていた。
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三好徳松さんは明治三十年ごろ中央病院のところに坑口を開き採掘していたが
日露戦争を境に炭界が好況となり、後日の三好鉱業の基礎となった。
当時炭坑の排水に赤水が出るので、部落の人達は稲の出来が悪いと炭坑のせいにし、
三好さんが高尾に炭層があるので譲ってくれと再三交渉したが、強い反対があり話は仲々まとまらなかった。
だが区の有識者の中に、これからは石炭の世の中ではあるし
炭坑で頃末が発展するのなら譲ったが好いということになり、ここに高尾が誕生した。
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当時赤水が出て困るので頃末区では三好さんと話しあいの結果、
石炭一万斤について十銭の区益金をもらうようになったが、出炭がふえて月定めになり、
のちには三好さんから金よりもいっそのこと頃末に神社を建てたらということになり、現在の伊豆神社が建立寄進された。
高尾に坑口をあけたのは明治の末期で、
現在のパン工場付近に五尺の坑口を設け、これは十一片まで掘った。
この坑口から出すボタで埋立をし、地獄谷と言われた谷底を埋めた。
さらに現在石島さん(柏町)が住んでいる処に三尺の坑口を開き、谷底を完全に埋めた。
五尺坑の採掘にその頃では珍しい蒸気捲で、高尾からエンドレスで病院付近に選炭場をつくり、
ここから物資課のところの田を横切って伊豆神社前を通り、旧役場前の桜淵で曲川に船積みしていた。
積出し量は一日八そう約二百屯で、此処から猪熊を通り江川に出て、若松に送りこんでいた。
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毎年曲川の水堰のことで紛争が生じ、川舟は水がないと石炭の運搬が出来ないし、
部落は水を田に引かねば田植などができぬと再三喧嘩が起きたが、
三好さんがものの解った人で流血の惨はなかったが、若松の方では川舟衆の殴り込み事件が多かった。
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五尺坑から三尺坑に移ったが、当時は納屋制度で納屋頭、繰込、見張が居り、
稼働者の生殺与奪の権は納屋頭が握っていて、
大きい納屋頭には斤先掘の形で坑内に男と女が一組になってその下に働いていた。
大正五年頃、楓町付近に五番坑が出来たが、
これから規模も大きくなり、現在の折尾倉庫に桟橋を作り、折尾で貨車に積込むようになった。
高尾から折尾に抜ける道路はエンドレスを敷設するため谷あいを拓りひらいて造った。
また梅ノ木坑の石炭を運ぶのに、樋口町から営繕の処までエンドレスを敷設し、高尾に抜けるトンネルをつくった。
今からくらぶれば当時の圧制も激しく折尾に出るにも見張所があって、
出る時には届けていくが、働きの悪いものは出さなかった。
そのころは渡り者が多く、裸一貫で炭坑に来て納屋に入ると飲代や道具代を前借するので、顔に馴染まぬ者は禁足されていた。
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三好さんは信心家であり侠気の人だったので、流れもんでも此処は働きよいと言っていた。
第一次大戦の時は景気も好く、上り銭で三日に一度は金をもらった。
不況時代でもそう他所に比べて悪くはなかったが切符制度の時もあった。
何しろ五番坑の時は蒸気捲きのクラッチで、差込の時は物凄いスピードで飛ばし、
棹取が花形で股引パッチに鉢巻で女の子にもてた時代だった。
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三好坑の近代化は専用鉄道を敷設した事に始まる。
高尾からエンドレスで中央倉庫の処で積込み、楓町付近が選炭場で、変電所や蒸気捲用の煙突も
当時では吃驚するほど高く、三好様の威勢を誇示するかの如くそびえていた。
昭和九年に日炭に変り、この名物の煙突も落雷のため十一年に倒したが、
時代の変遷は高尾の全貌を変えて埋立地全部に炭住が立ち並び、
代って現われたのが硬山(ボタ山)で煙突よりもあれよあれよと言っている間に高くなった。
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谷底を埋めて社宅が出来たのだから土地の人はいないが親切な土地柄で、
宵越しの金はもたぬのを自慢した川筋気質を一掃して、
生活合理化のトップをきって新しい高尾に脱皮している新生の姿は今昔の感がある。
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高尾区社宅の楓町で生まれましたが、当初から探していた「高尾炭坑の五番坑」が楓町付近にあり、「選炭場」があり、
子供時代に遊んでいた二鉱に下る「高尾トンネル 」のルーツまでもが判明しました。
しかし、三好徳松が炭坑名や坑口名に好んで「高尾 」の名前を多用した理由は、依然として不明のままです。
三好徳松が明治24年に、三菱鯰田炭坑に入職して炭坑の統領修行を始めた頃には、
西側の二瀬村には高雄炭坑があり、後には日鉄高雄鉱となります。 東側の田川の赤池には、安川敬一郎の高尾炭坑がありました。
水巻村に帰ってから福好坑等の開坑に従事して、後には頃末炭坑や大君炭坑を買収します。
水巻村南部で買収した高松炭坑の近くには、高尾山がありました。
高尾山は96メートル程ですが、ボタ山が出来るまでは目立っていたと思われます??
三好徳松は浅川村の北西の三ッ頭の生まれですが、浅川村の南東端に高尾があるのを知っていたかは不明です。
大正になると、高尾二坑・高尾三坑・高尾炭坑等々と使用されます。
日本炭礦は、高松第二鉱を新規に開坑して着炭すると、買収した高尾坑を閉鎖しますが、
その跡地に第二鉱の炭住街が建設されて、高尾の名前が残りました。
折尾町の古い地図や町図に、高尾町や高尾通りと出てきますが、どうも高尾炭坑の方が先のようです

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水巻町の「広報・水巻」の第203号にも、三好徳松の高尾炭坑が出てきますが、
こちらでは五番坑と選炭場の場所が少し違っているようです

「広報・水巻」--第203号--昭和39年06月25日発行 

郷土再見--高尾--むかしの炭坑 

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水巻町から折尾隧道を過ぎると高尾口がある。
 幅2メートルくらいの山道である。 高尾の人はこの道を歩いて折尾(北九州市)に出る。 
その入口のところに鹿児島本線と山道をつなぐように
国道の上をコンクリートの橋が渡っている
 昔の炭坑の名残である。

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明治24年に鹿児島本線が水巻を通ったが、それより前から水巻町には無数の炭坑があった。
その乱掘時代を経て大資本の投入により、異常に伸びはじめたのが三ツ頭出身の三好徳松であった。
日露戦争の始まる少し前頃からである。 
その頃、中央病院のあたり、高尾の風呂場の上、梅ノ木、大君に主な坑口があった。
中央病院の坑口を五坑と呼んでいたらしいが、その坑口をレベル(水平坑)と呼んでいた。
ご維新後に文明開化を呼び、欧米文化ならなんでも吸収しようとした時代がうかがえておもしろい。
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各坑口から出た石炭と硬(ボタ)を半トン箱の木箱五台単位を矢弦(巻揚げ機)で選炭場まで引張る。
その車道が、今は中央病院横の坂道となっており、
上りつめると右に高尾の風呂場、左に柏町の炭住。 その柏町が昔の選炭場跡である。
大きな選炭場であった。 多くの女性が選炭婦として働いていた。
運ばれてきた石炭と硬(ボタ)を、流れる大きなベルトの上にうつす。
その両側に選炭婦が立ち、石炭と硬に選り分け、硬は硬のベルトに、石炭は石炭のベルトにのせるのである。
入口のところが新参者で、奥にいくにしたがい古参(ベテラン)を配置した。
なぜそうしたかというと、始めは硬が多いから選び易いので、新参を入口に配したのである。
思いやり深いし実益もあろう。
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そうして精選された石炭をエンドレスで高尾口をくだり、あのコンクリートの橋を渡り、
鹿児島線にうつし若松に運んだ。 大正元年の頃である。
その時のエンドレスの車道が、現在の高尾口の山道である。
急な山を削り峠を思わせるこの道を四、五十年前ゴトンゴトンとエンドレスが石炭を運んでいたのだ。
言葉でいえば簡単だが、その石炭には多くの人の汗と涙があったに違いない。
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(注)--エンドレスとは皿倉山のケーブルと同じ理屈のもので、むかし石炭をそれで運んでいた。
おとなりの中間市の大正鉱業は空中エンドレスでボタを運んで捨てていた。
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日炭高松の戦後の火事の記録

第455号--昭和36年11月25日発行 

戦後から昭和36年までの火事の歴史

昭和 

火災箇所 

火災原因 

損害額 

S.22-04-27  

中央工場の木工場、工作工場が全焼 

漏電 

1,478万円 

S.22-11-14   

古賀区の二階八軒建て社宅、1棟が全焼 

漏電 

280万円 

S.24-01-21  

三鉱の本卸捲場の上屋、1棟が全焼 

トランスのヒート 

800万円 

S.25-02-28  

吉田配給所が全焼 

不明 

800万円 

S.26-11-28  

明映寮の二階建て、2棟が全焼 

七輪の不始末 

761万円 

S.26-12-19  

常盤荘の平屋建て、2棟が全焼 

七輪の不始末 

575万円 

S.28-05-16  

頃末郵便局舎と、宮ノ下社宅の平屋建て社宅、2棟が全焼  (焼死1名)

漏電 

300万円 

S.28-08-14  

二鉱の安全灯室、安全灯倉庫2棟、工作課室、浴場、鍛冶場が全焼 

不明 

1,246万円 

S.32-08-11  

三鉱の採炭課、工作課、軌道保安事務所、内修詰所、ケーブル倉庫が全焼 

蚊取線香の失火 

375万円 

S.33-02-28  

一鉱の吉田区桜町の平屋六軒建て社宅、1棟が全焼 

炬燵七輪の過熱 

288万円 

S.34-10-26  

一鉱の常盤区緑町の平屋建て社宅、4棟が全焼 

不明 

858万円 

S.36-01-18  

梅ノ木配給所が全焼 

失火 

1,626万円 

戦時中の会館・倶楽部等の火災の記録を探してみましたが、
残念ながら上記の記録しかありませんでした

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HPの案内 

折尾駅-今昔物語

折尾の歴史 

折尾町-今昔物語 

堀川の歴史

日炭高松炭鉱の記憶 

昭和30年代の日炭高松炭鉱



更新日--2011/05/02





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