昭和10年代の日炭高松新聞

( 九州大学・記録資料館所蔵 )

日本化学工業(株)日産化学工業(株)・遠賀鉱業所 時代の日炭高松新聞

( 九州大学・附属図書館・付設記録資料館所蔵の日炭高松新聞と石炭鉱業互助会報より )


会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)(S.12-2)日本化学工業(株)(S.12-12)日産化学工業(株)(S.18-4)日本鉱業(株)(S.20-7)日本炭礦(株)


( 日本炭礦から会社名は変わりましたが、新聞の名称は『日炭高松』で変わっていません )


日炭高松新聞と増補水巻町誌

『日炭高松炭鉱の記憶』のHP作成には、参考資料として『増補・水巻町誌』を使用しましたが
その他の資料から、いくつかの疑問点があるようです

 昭 和 

日炭高松新聞 

第一高松会館 

一鉱クラブ 

坑口の開削と出炭 

病 院 

頃末小学校 

第二高松会館 

杁クラブ 

記 事 

(発行日) 

「その他資料」 

(3,000人-片山区)  

(吉田幼児園・併設) 

『増補水巻町誌』 

『遠賀中間医師会60年史』 

『頃末小学校50年史』 

(3,000人-古賀区) 

(杁幼児園・併設) 

 12年-福利課幼児園10分園、32年-11分園 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (34年+道岸幼稚園・私立)

S.03 

(三好徳松) 

 

 

 

 

9月-仮教場の寄 

 

 

 1棟-4教室、後に病室となる 

S.06 

(三好鉱業) 

 

 

 

1月-三好中央病院の設 

 

 

 

 折尾から三好鉱業の建物を移築する 

S.09 

(三好セキ) 

 

 

 

 

4月-頃末分教場の寄贈 

 

 

 学校用地と2階建-1棟-16教室 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

S.09 

7月-日本炭礦設立 

 

 

三好鉱業・大君鉱業の買収 

日本炭礦・中央病院となる 

 

 

 

 7月-日本炭礦・遠賀鉱業所の設立 

S.10 

 

 

 

11月-高松第二鉱の開削 

 

 

 

 

 高松青年学校 

S.11 

9月-ガリ刷で創刊 

 

 

7月-第二鉱の出炭 

2月-一鉱分院の建設 

頃末尋常高等小学校となる 

 

 

 日炭高松・鉱業学校の設立 

S.11  

『増補水巻町誌』 

12月-共栄会館の建設』 

 

 

看護婦養成所の開設 

 

 

 

 11年5月-共栄会の発足 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

S.12 

「写真」 

「第一鉱・共栄会館」 

「第一高松・親交会館」 

4月-第二鉱選炭場の完成 

 

校舎の増築-16教室 

 

 

 請願巡査派出所、一鉱-2、二鉱-2、5名 

12-06-15 

#012 

第一鉱・共栄会館 

第一高松・親交会館 

 

 

 

 

 

 二鉱テニスコート、、折尾町遠賀郡公会堂 

12-10-28 

「絵葉書」 

 

第一高松炭鉱・公会堂」 

 

 

 

 

 

 12年12月-親和会の発足 

S.12 

 

 

 

 

 

 

 

「折尾の三好邸を移築」 

 OB談 

 

 

 

 

 

 

 

 

「13年正月に火事で焼失」 

 OB談 

S.13 

『増補水巻町誌』 

『共栄会館-1,000人?』 

『公会堂-2,000人?』 

 

 

 

親和会館-3,000人?』 

 

 p242 

13-07-15 

#034 

第一鉱・共栄会館 

親交会館

 

芦屋海水浴・柏原テント村 

 

(所在不明) 

 

 巡査派出所-高尾・梅ノ木・高松・片山 

13-11-01 

#041 

 

 

 

 

 

 

「杁の新築の親交会館」 

 10/22-社長視察に来所 

S.13 

 

興道会館に改称 

 

 

 

 

 

 

 13年6月-日産遠賀興道会の発足 

 

 

 

 

 

朝鮮人医師と看護婦 

 

 

「正月に火事で焼失??」  

 OB談?? 

S.14 

 

 

 

 

二島診療所の開設 

校舎増築-6教室、講堂 

 

 

 

14-02-01 

#047 

第一高松・興道会館 

 

 

 

 

 

 

 頃末小学校講堂 

14-02-15 

#048 

 

第一高松・親交会館 

 

 

 

 

 

 女子青年学校の新設 

14-03-15 

#050 

第一興道会館 

第一高松・親交会館 

 

 

 

「福日新聞で、第二鉱の倶楽部の火災を知る」

 頃末小学校・裁縫室 

14-07-01 

#057 

 

第一鉱・親交会館 

4月-二島鉱の開削 

 

 

 

 

 頃末小学校講堂 

14-08-01 

#059 

 

 

 

 

「1/12-二鉱社員倶楽部、工費17万円にて落成、九州一を誇る大建物が火鉢の不始末の為め焼失する」

14-08-04 

「絵葉書」 

遠賀鉱業所-興道会館」 

 

 

 

 

 

 

 興遊会館と誤読 

S.14 

「写真」 

 

「第一高松・親交会館」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅川分院・三ツ頭診療所 

 

 

 

 

15-05-20 

「#5-05」 

 

 

 

 

 

「第二興道会館の建設」「和室の倶楽部を併設」

『石炭鉱業互助会報』 

 

 

 

 

 

 

 

「延550坪-工費20万円--2階建3,000人--大広間・小間6・食堂・娯楽室」

S.15  

 

 

 

12月-第三鉱の開削 

11月-中央病院に新館を増築 

11月-火災で全焼する  

 

 

 町内で分散授業 

S.15 

「写真」 

 

 

 

3病棟を増築 

 

 

鮎川義介と幹部会」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

S.16 

 

 

 

 

 

頃末国民学校となる 

 

 

 町内で分散授業 

S.16 

 

 

 

9月-第一立坑の完成 

 

校舎再建-2階建2棟、講堂 

 

 

 

S.17 

 

 

 

3月-第三鉱の出炭 

 

校舎増築-2階建2棟 

 

 

 

S.18 

 

 

 

12月-第二立坑の完成 

 

 

 

 

 

S.19 

 

 

 

2月-第四鉱の開削 

 

 

 

 

 

S.19 

 

 

 

6月-常盤鉱の開削 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21-10-01 

#206 

第一高松会館に改称 

 

5月-第四鉱の出炭 

 

 

第二高松会館に改称 

 

 11/30-高松球場開き 

S.22 

 

 

 

 

 

頃末小学校となる 

 

 

 水巻東洋館 

24-07-15 

#253 

 

 

二鉱ボタ山を追加-(2+2) 

 

 

 

 

 3月末-中央区完成120戸-丸山ボタ捨場跡 

24-08-01 

#254 

 

 

 

9/1-一鉱に新分院の開院 

 

 

 

 総514坪-1,343万円-病室2棟16室 

25-06-15 

#271 

 

 

二鉱ボタ山でボタ再選別 

 

 

 

 

 高尾バック浄水場の大改造 

S.26 

#285 

 

 

4月-第五鉱の開削 

 

 

 

 

 大君農場跡 

S.27 

 

 

 

6月-第三立坑の完成 

 

 

 

 

 

S.28 

 

 

 

二島と二鉱・五鉱の貫通 

 

 

 

 

 

S.30 

 

 

 

2月-二島鉱の出炭 

 

 

 

 

 労務課長・西尾司が水巻町長になる 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

S.31 

#347 

1/26-ワイドスクリーン 

 

3月-常盤鉱の出炭 

 

 

1/26-ワイドスクリーン  

 

 18尺5寸X12尺9寸-シネマスコープ天然色 

S.31 

  

 

 

7月-低品位炭の回収 

 

 

 

 

 

S.31 

 

 

 

10月-第五鉱の出炭 

 

 

 

 

 

S.32 

#364、#365  

 

 

9月-石炭科学研究所 

 

 

 

 

 梅ノ木幼児園新設、3/1-二児島の除島式 

S.33 

#381、#382  

 

 

5月-二島鉱から揚炭開始 

 

 

 

北九州新人卓球大会 

 2,750mのベルトコンベア、民間テレビ局開局 

S.33

 

   

9月-二島と三鉱の貫通 

       

 34年よりメートル法に統一

S.34 

 

 

 

 

11月-2階建の新病棟を増築 

 

 

 

 技能鉱員研修所、保安技術教習所 

S.35 

 

(定員-721人) 

 

 

(病床総数220床) 

 

(定員-746人) 

 

 

S.37 

 

 

 

4月-第五立坑の完成 

 

 

 

 

 

S.39 

 

 

 

11月-第六立坑の完成 

 

 

 

 

 

                   

S.21 

#206 

一鉱・鉱員倶楽部-(図書室・大広間・和室2)--労働クラブに改称

(建物の並び--第一高松会館・床屋・倶楽部・歯科*・工賃)

二鉱・鉱員倶楽部--労働クラブに改称

 

22-08-30 

#223

 9/1一鉱労働会館の開館--第一高松会館の横--改築か?増築か? 

   

(*)--第一高松会館の隣りには、床屋・鉱員倶楽部・歯科・経理工賃が並んでいて、閉山後には元・歯科の建物が残っていました。
この建物もついに、平成23年4月26日から解体作業が始まる予定です。

********************

 

左は、『増補・水巻町誌』の242ページに掲載されている、昭和13年の日産化学工業・遠賀鉱業所時代の機械設備や福利厚生等の一覧です。
-------
私の親父は、昭和11年に日本炭礦の第二鉱に入りました。 私は戦後に、第二鉱の高尾区社宅 で生まれました。
戦後に増築された炭鉱社宅で生まれ、共同大浴場を使い、高尾幼児園に通い、高尾配給所で買い物をして、高尾ボタ山 の周辺で遊びました。
小学校は、高尾の坂道を下り、日炭中央病院の前を通り、日炭の蒸気機関車を眺めながら、頃末小学校 に通学しました。
 中学校は、日炭専用線の長い構内踏切を渡り、頃末の商店街を通り、水巻中学校 に通学しました。
--------
子供時代は、西鉄ライオンズの全盛時で、高尾幼児園の東側にあった高尾グラウンドでは、草野球が盛んに行われていました。
映画館は、古賀区にあった日炭の第二高松会館がほとんどで、折尾や黒崎の映画館にはあまり行った記憶がない。
遠足で行ったはずの折尾公園 も、半世紀前に閉園して、現在では知っている人もほとんどいません。
-------
水巻町には、日炭高松炭鉱の遺構が全く残っていません。 水巻町は、炭鉱の記憶をすべて消去してしまいました。
昔の三好一族は、頃末小学校や折尾高等女学校 等を残しました。 しかし、27年以後の菊池一族は、全く何も残していません。
住宅地の再開発に取り残された、旧・第一鉱の吉田ボタ山と、旧・第二鉱の高尾ボタ山 が、水巻町と北九州市の境界線に残っているだけです。
-------
 我が故郷の歴史を調べ始めた当初から、『増補・水巻町誌』を参考にしてきました。 
しかし、その他の三好関係や日炭高松関係の資料を調べていると、次の福利厚生・学校関連の記述の少なさが気になりました。 
 1、病院関係 2、学校関係 3、会館・倶楽部 関係 
-------
『増補・水巻町誌』では、左の一覧と年表の2カ所に中央病院とあるだけで、説明等が全くありません。
 九州共立大学や九州女子大学の図書館で、古い資料を探していた時に、『遠賀中間医師会六十年史 』を見つけました。
元院長の書いた「日炭中央病院の歩み」を読んで、三好中央病院と日炭中央病院 の関係が判明し、各分院や診療所等がわかりました。
頃末小学校50年史 』を読めば、頃末小学校の学校用地と建物の歴史関係がわかります。
水巻町としては、三好一族から寄贈された頃末小学校や、中央病院の建設の歴史を、どうやら隠したいように思われます。
三好徳松の神社寺院への寄進等は書かれていますが、三好中央病院と頃末分教場 は一行も出てきません。
以前の焼失した水巻町役場の土地も、三好一族が寄贈したはずですが・・・・
-------
左の一覧には、「公会堂・共栄会館・親和会館」とあるので、これらの会館・倶楽部も 『日炭高松新聞 』等で調べてみました。
結論から言えば、日炭高松には親交会館はあったが、親和会館の存在は全く確認できません
新聞記事や写真・絵葉書等で、第一鉱には、共栄会館⇒第一興道会館⇒第一高松会館一鉱親交会館⇒一鉱クラブ が確認できます。
昭和22年に開館した一鉱労働会館は、以前からあった鉱員倶楽部の改築と思われます??
-------
第二鉱の杁クラブ の歴史は、OBの話では、「二鉱事務所の完成までは、折尾の旧・三好邸を事務所とした 」、
事務所の完成後に、三好邸を移築して、社員倶楽部として使用した」、「昭和13年の正月に、火災で東側が焼失したので、再建した
昭和13年の41号に、「10/22-社長が視察に来所、杁の新築の親交会館 で業務報告をする」との記事がある。
昭和14年の50号・59号には、「福日新聞で、第二鉱の倶楽部の火災を知る」、「1/12-二鉱社員倶楽部、火鉢の不始末の為焼失する 」とある。
第二鉱では、社員倶楽部と親交会館は同じ建物と思われるので、二度の火災と二度の再建があったと思われる??
-------
昭和14年の初めに頃末小学校の講堂が完成すると、第二鉱の屋内での講演会や映写会等は、殆どが新築の講堂を使用しています。
この講堂も、15年11月には頃末小学校が全焼してしまい、翌16年に再建されました。
昭和15年5月の『石炭鉱業互助会報 』には第二興道会館の建設、和室の倶楽部を併設」とでてきます。
古賀区の550坪の土地には、以前は何があったのでしょうか??、幻の親和会館でしょうか??
昭和21年に第二興道会館が、映画館の第二高松会館に変わり、学校の映画会では、全員で古賀区まで行進をしました。
-------
労資協調機関の親和会と、社員倶楽部の親交会館とが混同されて、左の親和会館になったのでしょうか??
昔の写真や、情報の提供をお願いいたします。

日炭高松新聞』は昭和11年9月15日に、日本炭礦・第一鉱の共栄会の機関紙として誕生しました。 これは三池炭鉱に次ぐ、二番目の炭鉱新聞となりました。 
『日炭高松新聞』の第1号は、ガリ版刷りで600枚程度が発行されました。 第3号からは、活版印刷のタブロイド判2ページとなりました。
第1号から編集を担当した吉田法晴は、後には福利課長や勤労部長にもなり、県会議員・参議院議員・北九州市の初代市長となった異色の日炭社員でした。
日本炭礦(株)は、戦時中には会社名が次々と変わりましたが、『日炭高松新聞』の名称は閉山まで変わっていません。  

********************

日炭高松の会館・クラブ・病院・学校

 

 

昭和12年--共栄会館と、共栄会の新組長達 

昭和14年--第一興道会館--(九大は興遊会館と誤読) 

昭和40年頃--第一高松会館と映画看板 

昭和40年--一鉱労働会館の前にて 

 

 

 

 

昭和12年--第一高松炭鉱・公会堂--(親交会館) 

昭和14年--親交会館にて、興道会の新旧組長の交代式 

昭和40年頃--一鉱クラブと吉田幼児園 

昭和37年--吉田幼児園--(屋根・玄関・窓に注目) 

昭和39年--杁幼児園の東側 

昭和40年頃--杁クラブと杁幼児園、右に三好旧邸の別館 

昭和40年頃--第二高松会館と映画看板 

昭和37年--日炭中央病院と頃末小学校、手前に日炭専用線 

 

 

 

 

昭和12年--日炭中央病院--(6年に設立の三好中央病院と病室) 

昭和40年頃--日炭中央病院の新館--(15年に増築) 

昭和34年--日炭中央病院の新館・旧館・新病棟** 

昭和37年--日炭中央病院の新館と新病棟** 

 

 

 

昭和12年--頃末尋常高等小学校--立派な木造校舎です 

昭和14年--頃末尋常高等小学校の全景 

昭和15年--火災直前の、頃末尋常高等小学校と講堂の一部 

昭和36年頃--頃末小学校の講堂--(16年に再建) 

(**)-日炭中央病院の新病棟は、昭和46年の閉院以後は高松産業ビルとなっていましたが、平成23年2月頃までに解体撤去され、住宅地となるもようです。
日炭高松炭鉱の遺構は、ボタ山跡と三ツ頭診療所跡だけとなりました。

********************


HPの案内 

折尾駅-今昔物語

折尾の歴史 

折尾町-今昔物語 

堀川の歴史

日炭高松炭鉱の記憶 

昭和30年代の日炭高松炭鉱



更新日--2011/04/25





inserted by FC2 system