昭和30年代の日炭高松・第二鉱 |
福岡県遠賀郡水巻町(中央部の頃末)にあり、昭和40年3月に採炭を終了しました
( 鉱業所名の変遷---遠賀鉱業所・第二鉱⇒昭和32年・高松鉱業所・第二鉱 )
( 日炭高松・第二鉱---昭和10年11月に開坑開始し、昭和11年7月より出炭開始 )
昭和40年〜57年末迄は、ベントナイトの採掘が行われる
昭和31年頃の水巻町 |
昭和31年頃の水巻町の中央部---鯉口・頃末から猪熊・樋口までが確認出来ます |
左に鯉口区・中央区、中に杁社宅・宮ノ下社宅・高尾区、右に古賀区・梅ノ木区・高松区・長谷社宅の日炭高松社宅街です |
「現存している浅川区・中央区社宅跡」を追加 |
昭和31年の第二鉱と社宅街 |
昭和31年に北側から見た---日炭高松・第二鉱と二鉱ボタ山・社宅街・日炭専用線 |
左に高松区社宅、右に梅ノ木区社宅です 二鉱山ノ神の手前に、古賀区社宅と日炭高松球場 左上に高尾区社宅、右上に宮ノ下社宅と杁社宅です |
昭和31年--北側の二鉱ボタ山 |
二鉱ボタ山へ、ボタを運ぶトロッコ |
宮ノ下から見た--二鉱選炭場 (南側) |
日炭高松第二鉱・第一斜坑--揚炭用ベルトコンベア |
二鉱選炭場--内部風景 |
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昭和31年に西側から見た---二鉱選炭場(北側)の上部と二鉱ボタ山 |
高松鉱業所第二鉱の斜坑4本(東→西)---第1-揚炭用、第2-入気用、第3-排気・排水用、第4-人車・人道用 |
昭和32年の高松鉱業所・第二鉱 |
昭和32年に北西側から見た---高松鉱業所・第二鉱と二鉱ボタ山・社宅街・日炭専用線 |
左下の道路は、第三鉱と浅川地区へ、手前は古賀区社宅と第二高松会館、上は高尾区社宅です 二鉱ボタ山の北側二つは、山頂部を削り一つになっています |
左に浅川への道路、右は梅ノ木バス停です |
南から見た--古賀区社宅と新生街の商店です |
古賀区にあった豆炭工場跡?? (大君か??) |
昭和32年に南西側から見た---高松鉱業所・第二鉱と二鉱ボタ山・社宅街・日炭専用線 |
左に日炭高松事務所と宮ノ下社宅、右に日炭中央病院、右上に高尾区社宅です、左上に二鉱山ノ神と古賀区社宅です |
現在、山ノ神跡の中腹に図書館と歴史資料館、宮ノ下社宅は総合運動公園に、右手前の山は削られ高尾団地に、他も殆どが住宅地になっています |
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昭和32年頃---高松鉱業所と大君鉱業所の鉱区図 |
日炭専用線の頃末駅舎跡 |
通勤・通院等に利用された--頃末駅の駅舎跡--( 中央の信号機の右横、上写真の右端 ) | ||||
日炭中央病院と頃末小学校の間にあり、私の通学路で記憶に残っています | ||||
( 利用時期は、昭和3年〜35年前半頃のようです ) | ||||
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昭和20年代の日炭高松新聞に---夏季の芦屋行・臨時列車・時刻表の記載あり---昭和35年の前半頃まで利用されたようです | ||||
「芦屋の柏原海水浴場に海の家を設置--毎公休日運転、雨天の時は運休、平日運転に復す」 | ||||
臨時列車は4往復で、各駅間は5分、吉田から大君まで30分です | ||||
昭和37年頃---頃末駅跡と頃末小学校・頃末橋、左上に高尾区社宅 | ||||
「頃末小・水巻中」で使用した写真の別版で不鮮明です--( この写真の鮮明版を探しています ) |
昭和30年代の日炭高松・大君鉱 |
昭和30年代の大君鉱(第五鉱) |
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(芦屋町制百周年記念誌より) 昭和30年頃??の大君鉱(第五鉱) | |
下図の県営大君団地から大君グラウンドの一帯で、遠賀川の対岸は芦屋町です |
頃末から大君まで延長された日炭専用線 石炭運搬と、鉱員の通勤用にも利用されました 鉱員は、三ッ頭の日炭社宅から通勤していました
〔「大君鉱業所跡と三ッ頭」を追加しました--06/25〕 | |
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昭和56年と現在の大君地区 | |
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大君炭坑の歴史--明治27年に開坑、 明治39年-三好徳松が買収、 明治40年-第二三好炭坑を開坑 | |
(高尾二坑→高尾二・三坑→大君高尾坑→大君坑)、 昭和 9年-日本鉱業が買収 | |
昭和26年-日炭高松・第 5鉱(大君鉱)を開坑、 昭和37年-閉山 | |
大君農園の設置--昭和15年頃に厚生事業として設置--野菜畑、牛豚の飼育、大君池?で養魚、塩田等 | |
昭和30年頃まで存続したようです |