日炭高松炭鉱の社宅街-5

福岡県遠賀郡水巻町にあった、日炭高松の社宅と炭住街

( 職員用の社宅と、鉱員用の炭住街 )

日炭高松炭鉱では、昭和22〜23年頃に鉱員用社宅の新増築が行われました

昭和38年以降の社宅街は、「水巻町全図 (昭和38年)」を参照

昭和49年以降の社宅街は、「閉山後の社宅街 (昭和49年)」を参照


戦後の鉱員用社宅の新増築


職員用社宅の多くは平屋建二軒社宅でしたが、職位により数種類あったようです

戦前に建てられた鉱員用社宅は、二階建の八軒長屋や四軒長屋と、平屋建の六軒長屋や四軒長屋でしたが

昭和22〜23年頃に新増築された鉱員用社宅は、職員社宅風の平屋建二軒社宅でした

( 職員社宅風ですが、風呂はありませんでした )


  

    昭和22年---二島鉱と二島社宅・道岸社宅       昭和23年---二島鉱と二島社宅・道岸社宅       昭和43年の道岸社宅---左上に職員用、右下に鉱員用

日炭高松・二島鉱 (若松市二島)---昭和15年に開坑開始→中断→23年再開→30年2月に出炭開始→46年3月に閉山
二島社宅は、駅裏に職員用の平屋建二軒社宅、鉱員用は二階建四軒長屋と平屋建四軒長屋です  
道岸社宅の職員用の多くは平屋建二軒社宅、鉱員用は平屋建四軒長屋です
この写真では、二島地区の新増築は確認できません
建設当初の道岸社宅は、日産化学工業(株)〜日産液体燃料(株)等との共同社宅だったかもしれない???

   

昭和22年---浅川区社宅と縄手社宅(右下)

 昭和23年1月---浅川区社宅

昭和23年---浅川区社宅 

( お年寄りに聞いた昔の町名は---右下より縄手社宅・日ノ峰町?幸町?・宮前町・竹下町・上町のようです )
浅川地区の社宅街が、大きな変化を見せています
昭和22年には、日峯神社の南に新生寮?と幸町?の二階建八軒長屋、職員用の縄手社宅が見えています
23年1月には、日ノ峰町?の一部と宮前町に平屋建二軒社宅が建っています  23年には日ノ峰町?が完成、上町と竹下町の間に崖が見えています
日峯神社の北側・上町にあった白亜荘は、23年にはまだ建設されていないようです

  

昭和43年---浅川区社宅と白亜荘 (左)、第二鉱の第三竪坑 (右) 

白亜荘の建設は24年頃と思われ、その全景が確認できます
上町と竹下町の建設も24年頃と思われ、平屋建二軒社宅が白亜荘を取り囲んでいます  
縄手社宅の西側には、三鉱山ノ神と三鉱のグランドが見えています 
昭和27年には、日ノ峰町?の東側に第三竪坑が完成します  28年には、社宅街の北側に浅川小学校が開校しました  

 

昭和28年---浅川小学校の南側の校舎と思われます 

 

昭和36年---大君鉱(第五鉱)

昭和36年---大君豆炭工場 

昭和43年---大君鉱(第五鉱)の跡地 

日炭高松・第五鉱(大君鉱)---昭和26年に開坑開始→31年10月に出炭開始→37年10月に閉山  
大君農園の設置---昭和15年頃から厚生事業として、野菜畑・牛豚の飼育・大君池?で養魚・塩田等を実施---30年頃まで存続したようです
昭和43年のジェット練習機の下が、養魚をしていた大君池かもしれない???
江川の向田橋の北側には、日炭の大君豆炭工場がありました  豆炭工場の東側は、現在では高須団地に造成されています 
 

昭和22年---大君農園と思われる施設 

昭和22年---第四鉱(左下)と三ッ頭社宅 

 昭和23年---第四鉱(左下)と三ッ頭社宅

日炭高松・第四鉱---昭和19年に開坑開始→21年5月に出炭開始→28年7月に閉山
昭和22年は二階建八軒長屋で、23年に平屋建二軒社宅が見えています
日炭専用線から、第四鉱への引込線も見えています  
三ッ頭社宅の北側・丸ノ内には、昭和13年〜23年に高松鉱業学校と寮・運動場や青年学校等がありました
青年学校跡は、昭和22年〜25年には頃末小学校の三ッ頭分校となりました 

  

昭和36年---丸ノ内社宅                  昭和43年---丸ノ内社宅の跡地 

丸ノ内社宅の跡地は大君鉱閉山後に整備され、昭和43年に住宅地として分譲されました    

 

昭和22年---梅ノ木区・高松区・古賀区社宅 

 昭和23年---梅ノ木区・高松区社宅と第三鉱(右下)

昭和23年---古賀区社宅 

日炭高松・第三鉱(浅川鉱)---昭和15年に開坑開始→17年3月に出炭開始→44年5月に閉山
昭和22年の梅ノ木区・高松区・古賀区では、殆どが二階建八軒長屋です、一部は二階建の三軒長屋・四軒長屋です
23年の梅ノ木区と高松区の北側には、平屋建二軒社宅が見えています  
23年の古賀区では、球場の南と東側の牟田の収容所跡にも平屋建二軒社宅が建っています
  

 

昭和22年---第二鉱(左)と高尾区社宅 

昭和23年1月---高尾区社宅  

昭和23年4月---高尾区社宅

日炭高松・第二鉱---昭和10年に開坑開始→11年7月に出炭開始→40年3月に採炭中止
昭和22年には、殆どが二階建八軒長屋と平屋建六軒長屋です
この写真で、私の生まれた高尾区・楓町の平屋建二軒社宅 ( 77号棟〜90号棟 )の建設過程が確認できました
昭和23年1月には、楓町85号棟〜90号棟の6棟が建設されています  23年4月には、楓町77号棟・79号棟〜84号棟の7棟が増築されています
不鮮明ですが、二鉱ボタ山はまだ小さく、北側と東側が浅川ボタ捨場 になっていたようです

    

昭和36年---高尾区社宅                                            昭和43年---高尾区社宅 

上の写真では、高尾区社宅内の全ての坂道が見えています  高尾区は山間部の谷間にあり、全ての社宅は坂道と階段で結ばれていました
  東側の高尾幼児園は最上段部分にあり、右には我々が草野球をしていたグランドも見えています
昭和41年には、高尾工業団地の開発・整備が始まり、43年では幼児園や配給所・労務事務所等が姿を消しているようです  

 

昭和22年---頃末ボタ捨場跡 

昭和23年---頃末ボタ捨場跡と頃末小学校 

 昭和36年---水巻中学校と中央区社宅

頃末小学校には、昭和16年に再建された校舎2棟と講堂、17年に増築された校舎2棟が見えています
国道3号線と赤水川の南側〜鹿児島本線の北側の一帯は、三好炭鉱時代から頃末ボタ捨場として使用されていました
昭和23年に丸山区社宅360戸が計画されたが、約1/3の中央区社宅に平屋建二軒社宅が建設されました
昭和24年に水巻町公民館を建設、25年には水巻町役場が再建されました
昭和24年〜27年に水巻中学校の校舎4棟が順次建設され、体育館は28年に完成しました
昭和36年には新3号線が開通し、水巻駅も開業しました  中央区社宅の北東には、日炭労組本部や教会・青果市場・魚市場がありました

昭和21年頃---二鉱のボタ捨場?? 

ボタの運送に貨車を使っているので、上の頃末ボタ捨場か??、鯉口区社宅の南側の緑野埋立地??と思われます 

 

   

昭和23年---鯉口区社宅                           昭和36年---鯉口区社宅     

昭和23年の鯉口区社宅は、殆どが二階建八軒長屋です、一部は二階建の三軒長屋・四軒長屋です  
 鹿児島本線の南側に、平屋建二軒社宅が増築されています

 

昭和22年---吉田区社宅と片山区社宅 

昭和23年1月---吉田区社宅と一鉱選炭場 

昭和23年4月---吉田区社宅 

日炭高松・第一鉱---昭和9年7月以前は三好鉱業が操業→9年7月に日炭高松が操業開始→41年2月に閉山
昭和22年は、殆どが二階建八軒長屋と平屋建四軒長屋です
昭和23年には、吉田区の堀川運河の西側に平屋建二軒社宅が増築されています

 

                昭和23年1月---第一鉱と常盤区社宅・片山区社宅                            昭和23年4月---常盤区社宅と片山区社宅

日炭高松・常盤坑---昭和19年に開坑開始→中断→22年再開→31年3月に出炭開始→41年2月に閉山
第一鉱の北側に、開坑途中の常盤坑の2本の坑口部が見えています
昭和23年4月には、右上の常盤区と片山区の左下に寮??と平屋建二軒社宅が増築されています
一鉱ボタ山 (吉田ボタ山)は、34年に109.6m、38年には104.8mになります

 

今回の■■■■アーカイブは、残念ながら写真の解像度が低いので細部の確認ができません
■■■■アーカイブの、更なる解像度アップに期待しています


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更新日-'08/04/29





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