東中鶴鉱・新中鶴鉱の遺構

( 北九州市八幡西区大平3丁目 )

新中鶴鉱の竪坑跡地の北西に、東中鶴鉱・新中鶴鉱の遺構を確認しました
北九州都市高速・小嶺インターの西側にある、香月市民の森の遊歩道・北入口に残っています

S.19・中鶴第三坑S.29・東中鶴鉱S.35・新中鶴鉱・新三坑S.39・閉山 )



  

新中鶴鉱 (新三坑)の竪坑建設工事は、東中鶴炭鉱の租鉱権が満了する1年前の、昭和34年から開始されました
写真には東中鶴鉱の斜坑と、運搬用の炭車・ベルトコンベア・原炭ポケット??が写っています  この斜坑のあった窪地は、現在も大平3丁目の西側に遊歩道として残っています
右上の排気用斜坑の東側 (右側)に、もう1本の入坑・石炭搬出用の斜坑がありました
後方に見える鳥居は、現在の大平台南公園にあったと思われます  公園の北側には、今でも稲荷大明神の小さな社が残っています 

 

南から見た、東中鶴炭鉱の2本の斜坑の位置を、昭和32年の事故の報道映像より合成する--(映像で見る戦後史・読売国際ニュースより借用) 

右写真は、西から見た現在の大平3丁目と、香月市民の森の遊歩道の一部です  32年の2本の斜坑の推定位置と、34年に建設された竪坑の位置です 

 

 

中鶴三坑・東中鶴鉱・新中鶴鉱 (新三坑)の跡地は、現在では八幡西区大平3丁目の住宅地になっています
竪坑の跡地には民家が建ち、北側が大平3丁目公園になっています  大平3丁目の西側と南側一帯には、香月市民の森が広がっています 

 

 

写真の左下に、香月市民の森の西入口があります  中鶴三坑・東中鶴鉱・新中鶴鉱 (新三坑)の遺構は、遊歩道・北入口の木立の中に残っています 

 

 

香月市民の森は、北九州都市高速4号線を挟んで南北に広がっています  公園内には、生きた化石と言われるメタセコイアの並木が続いています 

 

   

大平3丁目公園の南側には、かつては新中鶴鉱 (新三坑)の竪坑が建っていました  情報収集で歩き回っていると、北西の木立の中にコンクリートの塊が見えていました 

 

  

遊歩道に下りてみると、見覚えのあるコンクリート構造物が少し傾いて残っています  
大辻炭鉱の原炭ポケット跡や変電所跡が、2007年末に解体されましたが・・・、是によく似ている運搬路の基礎部分が今でも約二間分ほど残っています 

 

 

このコンクリートは、上写真 (昭和34年)の石炭運搬路やベルトコンベア・原炭ポケット等の基礎部分と推定します 

 

 

露出している部分を素人が測ったので、多少の誤差はあります---西側基礎の厚さ・約500ミリ、東側基礎の高さ・約2,150ミリ、東西の間隔・約1,600ミリ 

 

 

200号線横の香月市民の森へ、大平3丁目の遊歩道・北入口から登っていくと、1分程で上の中鶴三坑・東中鶴鉱・新中鶴鉱 (新三坑)の遺構が見えてきます 

 

 

昭和32年11月25日に、出水事故が発生して18名が犠牲となりました  東中鶴炭鉱慰霊碑は、大平台南公園の入口近くにあります  
慰霊碑は34年に建立されて、以前はブロック塀の裏の石垣上にありましたが、今では狭い角地に移動しています 

 

サイトの検索で、以下の記事を見つけました 

Welcome to digigame's Home Page ・・「故郷・北九州市八幡西区上津役の郷土史と想い出」より一部抜粋 

私の子供時分のアケ坂辺りは、新中鶴炭鉱(新三抗)の竪抗(通称:ゆうれいビル)と炭鉱事務所、診療所、共同浴場、炭住(炭鉱の社宅)、神社などがありました。
 もう既に薄っすらした記憶しかないのですが、アケ坂に沿って、確かに鉄道レールが敷かれ、小さな踏切さえあった様に思います。
 今思うに当時、最寄の集炭基地であった旧国鉄・香月線まで接続するための、炭鉱専用のトロッコ支線だったのではないかと思われます。

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更新日--2008/05/12





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