昭和15年の高松炭鉱 |
( 写真・糸山様提供 )
日産化学工業株式会社・遠賀鉱業所・高松炭鉱 時代の写真と資料より
興梠友兼・鮎川義介・武道場等の写真
( アジア歴史資料センターの資料等 ) 会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)⇒(S.12-2)日本化学工業(株)⇒(S.12-12)日産化学工業(株)⇒(S.18-4)日本鉱業(株)⇒(S.20-7)日本炭礦(株)
昭和15年の幹部会 |
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昭和15年---日産化学工業・遠賀鉱業所・高松炭鉱の幹部達 (杁クラブ・玄関前にて撮影) | |||
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(杁クラブ---昭和12年頃に旧・三好邸を移築して建設、13年に火事で東側が焼失、14年に本館・洋風二階建が再建される ) | |||
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最前列・中央左に興梠友兼所長(常務)、右に鮎川義介--満州重工業開発(満業)・総裁--(日産化学工業・取締役) | |||
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昭和15年頃---遠賀鉱業所・高松炭鉱の幹部達 (杁クラブ・別館-西側の離れと思われる) | |||
(係長以上と思われるが詳細は不明、右から2人目--吉田法晴) |
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興梠友兼と武道場 |
興梠友兼所長の略歴は、「鉱区と炭層」に掲載しています
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昭和14年--50歳 |
昭和44年--80歳 |
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昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の弓道場にて | |
興梠友兼所長は、大正5年の杵島炭鉱での実習中から大弓を始める---『忘れ得ぬ其日』より | |
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高松炭鉱・第一鉱の弓道場は、一鉱山ノ神の北側(吉田グランドの北西)にありました | |
高松炭鉱の柔道部・剣道部・弓道部等は、大会で好成績を挙げたようです---上は、昭和15年の優勝記念です | |
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昭和14年---高松炭鉱の第二鉱・武道場の開設記念 | |
この武道場は、第二高松会館の北側の小山にあり、昭和35年頃には古賀幼児園になりました | |
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昭和32年に北西から見た---給水タンク・二鉱武道場・古賀駐在所・第二高松会館(映画館)・古賀クラブ・古賀区社宅街 |
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高松炭鉱・第一鉱 |
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昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の事務所前 | ||||||
この第一鉱事務所は、旧・三好鉱業の高松事務所跡と思われます | ||||||
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昭和40年頃---日炭高松炭鉱の一鉱事務所 | ||||||
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昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の坑口---本坑か??、新坑か??は不明です | ||||||
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新聞記事に見る---昭和16年の日産化学工業(株)・遠賀鉱業所・高松炭鉱 |
其の沿革を見ると、この炭鉱は大正末期に三好徳松氏が下層採掘の目的で開坑したもので、 現在採掘しているものは層厚三尺二寸の三ヘダ三尺層、同じく六尺三寸の四ヘダ五尺層、 此の炭鉱を日本産業株式会社が買収し、それに高尾、梅ノ木、糟屋炭鉱を加えて 昭和十二年四月、第一期工事の完成に依って、毎時百七十瓲処理の能力を持つ選炭機械設備と 第二日目いよいよ目的地筑豊炭田に第一歩を印する、今回中央表彰十二炭鉱中の一つ 筆者は第二高松炭砿で斜坑四千尺を下り、一切羽に於ける労働状態を観た、 この炭砿の就業時間は作業の種類に依って違うが、採炭と掘進は一日三交替の現場交替が原則 労務者に対する炭鉱の福利施設も、一般的に漸次充実されつつあることは事実だ、高松炭鉱の状況を観ると、 教育方面も男女青年学校、坑内技能者養成所、修業年限三ケ年の高松鉱業学校等があり 日産高松炭鉱は、其の整備した設備と沿革に就て既に一部分述べて置いたが尚お少し補足して置き度い、 第二高松は、四本の逆磐斜坑を開鑿し、大部分後退式一部前進式長壁法に依る、 今後の計画は、第二水平層以下は捲上げ、それ以上はこのベルトコンベアで搬出することになっている、 ****************************** |
『 神戸大学・新聞記事文庫-石炭(11-049) 』 |
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「昭和14年の高松炭鉱」・「昭和17年の高松炭鉱」
昭和30年代の日炭高松炭鉱 |