日炭高松の浅川区社宅跡 

「浅川の炭住街跡に、日炭時代の建物が残っている」 との情報があり
北九州市の最西部で、平屋建二軒社宅の形跡を探してみました
炭鉱住宅に特徴的な、「縦長の木製換気口(換気ガラリ)」と「ヨロイ張りの壁板」を目印としました
北九州市八幡西区浅川で、25棟の平屋建二軒社宅跡を確認しました

( 平成19年4月-撮影 )


浅川に残っている社宅跡 


浴室等の増築や外壁・窓・扉等が改装された、25棟の平屋建二軒社宅跡を確認しました
(1丁目--10棟、2丁目--15棟)
( 旧町名別の残数---日ノ峰町-6棟、宮前町-4棟、竹下町-3棟、上町-12棟 )

東側の片方が残っている社宅---12棟
西側の片方が残っている社宅---10棟
完全な平屋建二軒社宅のままで残っている社宅---3棟

部屋の間取りは、私の住んでいた高尾区楓町の平屋建二軒社宅と全く同じであると確認できました

 

左の3畳は我家の増築例で、右の玄関側が北になります---(東側半分を作図) 

「縦長の木製換気口(換気ガラリ)」と「ヨロイ張りの壁板」が、炭住の目印となります 

炊事場の出窓や勝手口(昔は木製扉)・ヨロイ張りの壁板等が残っています

薪や豆炭・練炭入れの扉には、昔のままの木製扉が残っています

木製だった窓がアルミサッシに変わり、壁板もプリント合板に変わっています 

木製だった玄関も立派になり、便所の前には(我家も)南天が植えられていました 

 

こちらの勝手口には、昔のままの木製扉が残っています  炊事場や三畳間出窓には、昔のままの木製窓枠が残っています

 

 

こちらの玄関には、昔のままの木製引戸が残っています 

こちらの炊事場の出窓の下には、ただ一個になった石炭箱が残っています 


私の記憶にある木製の窓枠や引戸の残っている建物は、この1棟だけになっています
殆どの社宅には、炊事場側や裏庭側に増改築がなされています
裏庭に濡れ縁が残っているのは、2棟だけのようです

鉱員用の平屋建二軒社宅は、戦後復興期の昭和23年頃の建築と思われるので
今年で還暦を迎える事になります

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日炭高松の中央区社宅跡 


浅川区社宅跡に引き続き、水巻町でも日炭時代の平屋建二軒社宅を探してみました
炭鉱住宅に特徴的な、「縦長の木製換気口(換気ガラリ)」と「ヨロイ張りの壁板」を目印としました
遠賀郡水巻町頃末で、4棟の平屋建二軒社宅跡を確認しました

( 平成19年4月-撮影 )



頃末に残っている社宅跡 

浴室等の増築や外壁・窓・扉等が改装された、4棟の平屋建二軒社宅跡を確認しました

東側の片方が残っている社宅---1棟
西側の片方が残っている社宅---2棟
完全な平屋建二軒社宅のままで残っている社宅---1棟


部屋の間取りは、高尾区や浅川区の平屋建二軒社宅と全く同じである事を確認しました

 

 

この街灯も磁器製の絶縁碍子も、昔の物が残っているようです 

二軒長屋の片方を残そうとすれば、その切断面はこのようになります

 

 

外壁等は改装されているが、左右対称の完全な形で残っている日炭時代の鉱員用・平屋建二軒社宅は、頃末には1棟だけのようです

 

 

昔の便所の照明には、裸電球がぶら下がっていました 

便器や壁・床等はすっかり変わっているが、上の窓と下の小窓が今も残っています 

 

六畳間の床の間と押入も、我家の40〜50年前と全く変わっていません、柱時計の位置までも一緒です

現在は、便所横の押入を外して一軒家として使っているので、西側の炊事場跡が浴室になり、三畳間は両方共に洋間に変わっています

昭和41年の転居から実に40年振りに、平屋建二軒社宅の内部を見ることが出来ました
若干の改築改装はなされているが、ほとんどは昔のままで残っています
中央区社宅は、昭和23年に「幻の丸山区社宅計画-360戸」の一部として建築された社宅街であり
浅川区社宅と同じように還暦を迎える事になります


平成17年に日本炭礦事務所跡も解体撤去され
日炭時代の建物で残っているのは、三ッ頭診療所(四坑分院)跡と日炭中央病院の新病棟跡です
完全な形の4棟の社宅跡は、日炭高松炭鉱の貴重なタイムカプセルです

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現存している道岸社宅跡」を追加


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更新日 '07/04/19





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