洞海-くきのうみ-と二子島 |
( 貝原益軒--『筑前国続風土記 』-巻之十五-遠賀郡之下-より )
洞海- くきのうみ
-は、現在の洞海湾と思っていましたが、貝原益軒の『筑前国続風土記』では洞海湾の西側にあったようです
日炭・二島鉱の選炭場の南に二子島がありましたが、昭和32年にはその姿を消してしまいました
(
中村学園大学図書館・貝原益軒アーカイブより一部抜粋 )
貝原益軒(1630-1714)は、元福岡藩士で本草学者・儒学者です、『養生訓』『和俗童子訓』『大和本草』『筑前国続風土記』等を著しています |
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現在の海水面とは約5メートル程違っています、古遠賀湾は直方駅付近まで広がっていたようです。 古遠賀湾の一帯は、記紀や古代史研究者の間では注目地域となっています。 |
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( 昭和23年の江川---川沿いのグレー部分はかつての入海の跡で、蜑住から東には干拓地が広がっています
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明治20年--干拓地と二子島 大正8年--埋立地と二子島 |
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昭和23年--日炭二島鉱 昭和25年--日炭二島鉱 |
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昭和31年8月--日炭二島鉱の選炭場と二子島
(本島と沖島) |
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昭和28年頃--洞海湾の埋立予定図 |
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皿倉山から見た--2004年の洞海湾 |
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左に黒崎駅と堀川・江川の河口部、中に八幡駅、右にスペースワールドと若戸大橋 |
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東二島の日吉神社の境内西側に、以前は二子島にあった--「両児嶌大明神」--が移設され安置されています。 祠の西側には、猿田彦大神や塩土老翁等の石碑もあります。 二嶋村--「両児嶋神社」--二子嶋ニアリ、祭神・伊奘冉命・市杵島姫命・神功皇后、モト許斐社、或乞水社ト称セリ---『福岡県地理全誌』 伊奘冉命・市杵島姫命は、大字二島字下り松--「両兒島神社」--にて奉斎しありしを、大正7年6月17日許可を得て本社(日吉神社)に合祀す---『福岡県神社誌』 「二児島明神」--小祠あり、石扉の銘に嘉永4年(1851)再建、発頭願主・吉武源九郎、大宮司・伊高阿波守藤原朝臣繁雄と彫刻あり---『若松市史』 |
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日吉神社の北東側に、神功皇后所縁の「紅影の池」が残っていますが・・・・説明板や石碑は、初夏の旺盛な植物軍団に侵略・占領されています。 |
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魚鳥池と魚鳥池神社 |
洞海-くきのうみ-の初出は、養老四年(720)に成立した日本書紀になります
神功皇后所縁の魚鳥池と魚鳥池神社が、蜑住の日炭・第六竪坑跡近くの払川に残っています
『 日 本 書 紀 』 -卷第八- 《仲哀天皇八年(己卯一九九)正月壬午(四)》 |
皇后別船自洞海〈洞。此云久岐。〉入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之。自洞奉迎皇后。 |
皇后の船は、洞海(くきのうみ)より入った。潮(しお)涸(か)れて進むを得ず。 |
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昭和25年--魚鳥池の周辺
柳川とは、干満の差を利用して魚を捕る為に簗-やな-を仕掛けた川と考えられます。 「祓う・拂う・払う・掃う」は、厄を祓う・塵を掃う等の「取り除く」という意味です。 |
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古文書や写本等には読めない文字が多いので、今までは敬遠をしていましたが・・・・ |
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『筑前名所図会』の「石の井筒に銘す」は、こちら『風土記附録』の井幹のようです |
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続風土記には、『村老語れり。魚沼鳥池を作りし所も、此山の下今の新村の邊ならん。此所は昔潮の入口なり。貞享年中に、此地新田となりしに、其所に清泉出づ。 |
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魚鳥池の横には民家が建ち、以前の田圃に囲まれた雰囲気が無くなり残念です。 北側には、洞北中学校と頓田貯水池の堰堤が見えています。 |
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魚鳥池の西、魚鳥池神社の南の田圃の中に、明治35年4月に建立された魚鳥池之碑
(磐石の碑)があります。 |
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魚鳥池神社は、いつの頃か鵜巣石から現在地に移されたようです。 現在地の山上には、「神功皇后の御輿掛けの松があった処」と言い伝えられています。 |
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魚鳥池神社
(無格社)--神殿・入三間・横一間二尺、渡殿・一間四面、中殿・入一間半・横二間、拝殿・二間五尺四面、石鳥居・高一丈二尺・廻三尺八寸、社地・六十六坪---『遠賀郡誌』 魚鳥池神社--大木殿原(沖殿原)、祭神・市杵嶋姫命、イツノ頃カ、拂川村鵜ノ巣ヨリ此ニ移シ、魚鳥池神社ト称ス、此所ニ御輿掛松アリ---『福岡県地理全誌』 市杵嶌神社--拂川村・鵜ノ巣---『福岡県地理全誌』 |
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魚鳥池神社の社殿の前には、安政4年(1857)に建立された狛犬が残っています。 |
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魚鳥池神社の社殿の東側に4基、西側には3基の古い石の祠が祀られています。 特に古い東側の4基の石祠は、現在地に移される以前の神社の原形と思われます。 |
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魚鳥池之碑 (磐石の碑)が建っている鵜ノ巣石のあった跡地には、魚鳥池神社に移動された古い祠の礎石4個がまだ残っているようです。 |
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蜑住から江川沿いの道を更に西に進むと、小敷・太閤橋の先の江川南岸に太閤水の井戸跡が残っています。 |
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豊臣秀吉は、文禄元年(1592)朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣する時、大阪から肥前までの要所要所に太閤塚や給水所を設置し道路を整備しました。 |
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