遠賀郡の炭鉱-明治39年

本邦鉱業一斑・明治38年版〜43年版.

農商務省鉱山局-M.39〜44-より

遠賀郡の重要鉱山-(石炭・年産三萬噸以上、40年より五萬噸以上)-を抜粋しました


( 原本のカタカナ表記を、平仮名に変換 )( 明治41・43年は、変更のある部分を抜粋 )

 

明治39年--三好炭礦

名称 

 福岡縣採掘登録--第六一号  福岡縣遠賀郡水巻村・外二村--三好炭礦  礦業人--三好徳松

沿革 

本坑は曾て、頃末炭坑なる名称の下に採掘せしことあるも、一旦休業の厄運に遭遇し後、現坑主の所有に帰し
明治三十七年九月中採掘に着手せしが、翌三十八年七月洪水の為め、坑内全部浸水し一時体業せしも、九月排水を竣へ継て採掘に着手せり
三十九年八月より更に一ニの新坑を開鏧し、爾來継続現今に至れり 

地理 

本山は遠賀郡水巻村の東部に位し、九鐵幹線に相接近す、東は折尾村大池の山嶺に接し、北は有名なる長谷の池を負い、西は頃末の村落に而す
違賀川の支流なる曲川の水路により、若松・蘆屋の両港に送炭す、東約一哩にして折尾驛あり、北里餘にして蘆屋港に達す 

採礦 

残柱式により採礦し、坑内の出水は喞筒「スペシャル」式七臺を設置し排水す 

撰礦 

捲機により坑内より捲揚たる炭車内の石炭を、「萬石」に掛け塊・粉の区別を為し、運炭用の炭車に積込の際、硬及粗炭を撰出す
切込炭は坑内炭車より置場に移し、運炭に當て撰炭を為せり 

運搬 

人力による鐵道は、切羽より捲立迄の間にして、捲竪場に炭車を集中し汽力を以て坑外に捲揚げ、貯炭場より馬力にて運搬す 

出炭 

M.36--0、M.37--0、M.38--49,065t、M.39--112,627t 

坑夫 

( M.38--坑内--男407人・女220人・幼26人・計653人、坑外--男51人・女50人・計101人 ) 

 

 

参考 

( M.38--高松礦山--土居通夫--坑内--男20人・女6人・計26人、坑外--男12人・女4人・計16人 )

 

( M.36--52,338t、M.37--14,466t、M.38--2,744t ) 

   

 

明治41年--三好炭礦

名称 

福岡縣採掘登録--第五八〇号  福岡県遠賀郡水巻村・外二村--三好炭礦  礦業人--三好徳松 

採礦 

松材を以て支柱を施し、残柱式に依り採掘す、坑内の出水は喞筒に依りて排水し、汽力は坑外に設備せし汽罐の蒸汽を充用す 

撰礦 

炭車を坑外に捲揚け、之を桟橋に架したる「萬斛」に流し塊・粉の区別を為し、積込の際硬及粗炭を撰出す
切込炭は坑内炭車より直に貯炭場に移し、運炭の場合に之を撰出す 

運搬

坑内の人力に依る鐵道は、切羽より捲立迄に至る間にして、捲立に炭車を集中し汽力を以て坑外に捲揚げ
「エンドレスロープ」にて運炭す、馬力鐵道は三尺坑より「エンドレス」線迄の鐵道なりとす 

 

 

 

明治43年--三好炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第五八〇号  福岡県遠賀郡水巻村・外二村--三好炭礦  礦業人--三好徳松 

沿革 

本鉱山は曾て頃末炭坑と稱し、前後数人の鉱業権者の下に経営せられしことありしか
三十七年九月當鉱業所の経営に帰し、爾来三尺・五尺炭採掘中にして、目下更に三尺新坑開鏧中なり 

地質 

地質は第三紀層に属する砂岩及頁岩より成り、含有炭は五尺・鐵石及三尺炭(本石)の三層にして
何れも鉱床は走向東北へ六十五度、傾斜十四度なり 

採礦 

採鉱は残柱式に依る、炭柱は五間乃至十間の大さにして、各切羽の幅員は十五尺以内とす、而して片盤は約五十間毎に設備し
主に火薬を用ひ採炭す、通氣は自然に委し、排水は汽機に依りて排出す
通氣量は平均一分間二萬千六百立方呎にして、排水量は一分間三十五立方呎なり 

撰礦 

選炭は総て手選にして、坑内より搬出せる石炭を桟橋に移し、同所に設けたる萬斛に依りて塊・.粉に区別し
亦は切込の儘貯炭場に移し、塊・切込炭に付ては運搬の際、硬を除去す 

運搬 

坑内の人力に依る鐵道は、切羽より捲立場間に於てるものにして、捲立に炭車を集中し汽力を以て之を坑外に捲揚ぐ
坑外鐵道は選炭場より積込場に至る間にして、無極索道に依り送炭す 

出炭 

M.40--107,583t、M.41--122,590t、M.42--99,340t、M.43--81,382t 

坑夫 

( M.43--坑内--男287人・女101人・計388人、坑外--男89人・女36人・計125人 ) 

 

 

(注) 

( 三好徳松は、明治37年より頃末炭坑を営業・経営し、39年に鉱業権を買収・取得する---増補水巻町誌-146p・147p参照 ) 

 

( 「本邦鉱業一斑・明治38年版」には、「名称--三好炭礦、礦業権者--下澤善右衛門」との記載もある )

情報 

遠賀郡島門村別府--別府炭坑--三好徳松--明治35年度に、566,327,240斤 (約339,932t)の出炭がある--「筑豊四郡煤田調査報文」-M.37-より 

   

 

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明治41年--中鶴炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録第三七八号  福岡縣遠賀郡長津村・外二村--中鶴炭礦  鉱業人--伊藤傳右衛門 

沿革 

今を去る二十年前、廣瀬護之小規模の竪坑開鏧に着手せしも、其目的を達すること能はずして之を中止し、爾來復手を下すものなかりき
本鉱区は元来五鉱区より成立し、明治三十四年に谷茂平・船津林七・桂清右衛門の三名に許可、後転々遂に十七銀行の有に帰し
更に現鉱業人に於て之を買収合併し、三十九年一月堅坑開鏧に着手し同年九月豫定の炭層に達し、事業を拡張し以て今日に至る 

地理 

地勢概ね廣潤なる田甫にして丘陵の起伏せるあり、遠賀川は鉱区の西端を北流して蘆屋港に注ぐ、帝國鐵道・筑豊線の中間驛は實に本区域内に在り
遠賀川より分流せる堀川は、区域内を貫流し折尾村を経て洞海湾に入り、運炭交通極めて便利なり 
  

採礦 

地表より徑十八尺・圓形竪坑を穿ち、ニ百十尺にて五尺炭層に達し、坑底より走向に従ひ左右に片盤を延長し、上下に添延を設け通氣坑道とす
本卸六十間毎に左右片盤を設け運搬坑道とし、各片盤より二十間毎に昇卸を延長し採炭坑道と為す、而て坑底片盤を区劃とし
上部は残柱式、下部は長壁式に依り採炭す、炭柱は総て十五間方形とす、三尺層は五尺層の十間以上にあり、採炭方法五尺層に同じ 

撰礦 

撰炭は総て手撰とす   

運搬 

坑内卸底より竪坑坑底片盤迄、距離百七十間の間を運搬す、竪坑底より捲揚機に依り坑外に放出す
「エンドレスロープ」機に依り、坑外撰炭場より約百五十間を距る積込場へ運搬す 

 

 

 

明治43年--中鶴炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録第三七八号  福岡縣遠賀郡長津村・外二村--中鶴炭礦  鉱業人--伊藤傳右衛門 

地理 

本鉱区は遠賀郡長津村の西部を占め、北に水巻村・西に南底井野村に跨る、地勢概ね廣潤なる田甫にして處々に丘陵の起伏するものあり
遠賀川は鉱区の西端を北流して芦屋港に注ぎ、同川より分流せる堀川は、区内を貫流し折尾を経て洞海湾に入る
而して筑豊線中間驛は實に本区域内に在りて、坑所を距つる東僅に五町に過きす 

地質 

地質は頁岩・砂岩の互層にして、其中間に夾層するは、三尺前・三尺・五尺前・五尺及高江層の五層とす
走向は百五十九度にして東方に向ひ、十三度三十分の傾斜を為す、而して現稼業の竪坑に於て調査せる各層間の距離左の如し
地表より三尺前迄百三十一尺、三尺前より三尺迄十二尺五寸、三尺より五尺前迄二十二尺七寸
五尺前より五尺迄二十五尺一寸にして、高江炭層は探鉱の結果、五尺層以下二百四十七尺に於て之を發見せり 

採礦 

竪坑の坑底線を区劃とし、上部は残柱式、下部は長壁式に依り採掘す、炭柱は總て十二間方形とし、各片盤の距離は六十間
切端幅員は九尺乃至十尺にして、採掘跡は木積亦は土石充填を為す、而して目下採掘せるは五尺及三尺の両炭層にして
三尺層は五尺層各片盤より深部に向い水平坑道を穿ち連絡す、採掘方法は手掘にして鶴嘴を用い、堅硬なる部分には発破薬を用ゆ
現在坑口左の如し、竪坑--圓形-徑十八尺-運搬及通氣用-深さ二百十尺、竪坑--長方形-九尺・十二尺-排氣用-同百八十尺-外に排氣筒・地上五十尺
斜坑--半圓形-巾六尺・高六尺-通行及通氣用-同七十間、通氣は自然通氣にして、運搬竪坑及人道斜坑より吸入し、漸次片盤毎に分流せしめ
各混流を防ぐ為め、坑道交叉点には風橋、排氣路には分流門を設置す、排水は各所に喞筒座を設け、順次に揚水を行う
現時排水量は六十立方尺にして、使用の喞筒左の如し、十八吋--四臺、十六吋--四臺、十四吋--三臺、十二〜七吋--七臺 

撰礦 

撰炭方法は総て手撰にして、機械的装置なし 

運搬 

坑内本卸及運搬坑道には軌道を布設し、炭車は各切羽より運搬坑道迄は人力に依り、其より竪坑坑底線迄は坑内設置の捲揚機に依り坑外に搬出す
坑口より選炭場迄は人力に依り、同所より鐵道支線積込場及船積込場迄は無極索道に依る 

出炭 

M.40--15,034t、M.41--58,582t、M.42--79,033t、M.43--107,470t 

坑夫 

( M.43--坑内--男361人・女186人・計547人、坑外--男78人・女50人・計128人 ) 

 

 

 

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明治39年--第二新手炭礦

名称 

特許--第二五五号  福岡縣遠賀郡長津村・外二村--第二新手炭礦  鉱業人--矢作忠良 

沿革 

明治十五年中、伊藤陶索始めて鉱区の借区を出願し、翌十六年大字唐戸字元岡に開坑せしも 、當時の鉱区は僅に二萬餘坪に過ぎず
採掘する所今の三尺炭のみにして、蒸氣機関等の施設なく、運搬排水総へて人力に依りしかは、十七年中排水工事の充分ならざる結果、一旦休業の厄に罹り
其後、許斐鷹介外数名の有に帰し、事業漸く再興して五尺炭を採掘し且其鉱区を増借し、明治二十年十月中着炭を見るに至りたり、是より諸般の準備を整へ
二十二年十一月中始めて汽罐の据付を竣へ、更に字門前に一新坑を開鏧せしも、二十四年の夏洪水の為め再び休業の已むなきに至りたり
其後喞筒を増設し翌四月再び採掘工事を始め、二十七年二月中、九州炭鉱株式会社之を譲受け、爾来幾多の鉱業人を経て
三十八年七月中現鉱業権者の有に帰し今日に至る 

地理 

本山は東に帆柱山・福智山の諸嶺連り、黒川は鉱区の境界線に沿い西に流れて長津村堀川に入る
堀川は遠賀川より分流して、区域の西端を貫通し折尾村を経て洞海に入り、石炭の運漕最も便利なり、北約十町にして筑豊線中間驛あり 

採礦 

採鉱方法は残柱採炭法式にして、大さ十間角の炭柱を残す
而して排水喞筒の種類は左の如し、十八吋六臺、十六吋二臺、十四吋一臺、十二吋一臺とす 

撰礦 

「萬石」六臺を以て塊・粉に区別し、其他手撰を為す重要なる設備なし 

運搬 

 坑内運搬は主要運搬坑道に鐵道を敷設し(幅員一呎八吋、軌道の重量十二對度)、水平坑道は鉱車(容量八百斤)を主要運搬卸坑道迄押出し
坑外に据付ある捲揚機に依り搬出す、坑外運搬は坑口より撰鉱場迄、坑内より捲揚たる鉱車の儘人力に依り運搬す

出炭

M.36--55,987t、M.37--56,264t、M.38--65,827t、M.39--89,709t 

坑夫 

( M.38--坑内--男253人・女114人・計367人、坑外--男6人・女1人・計7人 ) 

   

 

明治41年--新手礦業所

名称 

福岡縣採掘登録--第五二三・五二四号  福岡縣遠賀郡長津村・外二村--新手礦業所  鉱業人--伊藤傳右衛門 

沿革 

明治十五年中、伊藤陶索始めて鉱区の借区を出願し、翌十六年大字唐戸字元岡に開坑せしも 、當時の鉱区は僅に二萬餘坪に過ぎず
採掘する所今の三尺炭のみにして、蒸氣機関等の施設なく、運搬排水総へて人力に依りしかは、十七年中排水工事の充分ならざる結果、一旦休業の厄に罹り
其後、許斐鷹介外数名の有に帰し、事業漸く再興して五尺炭を採掘し且其鉱区を増借し、明治二十年十月中着炭を見るに至りたり、是より諸般の準備を整へ
二十二年十一月中始めて汽罐の据付を竣へ、更に字門前に一新坑を開鏧せしも、二十四年の夏洪水の為め再び休業の已むなきに至りたり
其後喞筒を増設し翌四月再び採掘工事を始め、二十七年二月中、九州炭鉱株式会社之を譲受け、爾来幾多の鉱業人を経て
三十八年七月中、矢作忠良の有に帰し、第二新手炭礦と唱へ爾来事業を継続せしが、四十一年三月岡田三吾に移転し
更に同年十一月現鉱業人の所有となり、新手礦業所と改名せり 

地理 

本山は東に帆柱山・福智山の諸嶺連り、黒川は鉱区の境界線に沿い西に流れて長津村堀川に入る
堀川は遠賀川より分流して、区域の西端を貫通し折尾村を経て洞海に入り、石炭の運漕最も便利なり、北約十町にして筑豊線中間驛あり 
 

採礦 

採鉱方法は残柱採炭法式にして、大さ十間角の炭柱を残す
運搬用捲揚機械は「タブル」「シリンダー」十六吋及び十三吋の二臺を坑外に据付くる外他に主要なる設備なし
排水喞筒の種類は「スペシャル」式十八吋六臺、十六吋二臺、十四吋一臺、十二吋一臺とす
給水喞筒は「スペシャル」式十四吋一臺、十二吋一臺、十吋一臺、「カメロレン」式八吋一臺、採炭器具は普通器具を用ひ手堀為す 

撰礦 

撰鉱は「萬斛」六臺を以て塊・粉に区別し、其他手撰を為し重要なる設備なし 

運搬 

坑内運搬は主要運搬坑道に鐵道を敷設し(幅員一呎八吋、軌道の重量十二對度)、五十間乃至六十間毎に主要運搬卸坑道より水平坑道を設け
是亦鐵道を敷設し、鉱車にて主要運搬卸坑道迄押出し、坑外に据付ある捲揚機に依り搬出す
坑外運搬は坑口より撰鉱場迄、坑内より捲揚たる鉱車の儘人力に依り運搬す 

   

 

明治43年--新手礦業所

名称 

福岡縣採掘登録--第五二三・五二四号  福岡縣遠賀郡長津村・外二村--新手礦業所  鉱業人--新手炭礦株式會社 

地質 

地質は第三紀層に属し頁岩・砂岩及蛍岩の互層より成り、其間に数多の夾有す、此等炭層中多くは前鉱主時代に採掘し了り、現今採掘しつつあるものは
三ヘダ三尺及四ヘダ五尺の両層のみ、共に褐炭にして松石の存在なく、走向は三百二十八度、傾斜平均七度三十分にして、其の方向は五十八度とす
尚ほ断層は鉱区の深部に於て一箇の大断層あるのみにして比較的少し、三ヘダ三尺は炭層の厚さ二尺八寸にして、内に二枚の夾層あり、其の厚さ各二寸
亦四ヘダ五尺層は炭層の厚さ四尺七寸にして、内に三枚の夾層あり、其の厚さ各四寸餘なり、三・五尺両層共に上下両盤は頁岩に属す 

採礦 

採炭法は柱房式階段長壁式の両種にして、柱房式は切羽面六間・炭柱幅六間の「シングルストーン」とし、長壁式は二十四間乃至三十六間の切羽面を有す
亦割目発達の状況に依り、柱房式或は長壁式なるも共に昇向亦は卸向とす、通風は自然通風にして、新斜坑人道斜坑及三尺竪坑(深さ一九間)を入氣とし
本斜坑及五尺竪坑(深さ二十一間)を排氣坑に充て、一分間の給氣量平均三萬五千立方呎内外とす、排水の方法として本斜坑に並行して鐵管卸を取り附け
之に蒸氣及押上の鐵管を布設し、七百間の延長ある卸底より四箇所に喞筒座を置きて排水す、目下坑内排水用として使用しつつある揚水機は左の如し
十八吋四臺、十六吋一臺、十二吋一臺、而して坑内平時の水量は一分間十立方呎内外にして、雨期に於て三四割の増加あるのみ
水量少なきを以て現今使用しつつある喞筒よりは一層小なる喞筒にて可なるも、以前は現今よりも出水量多かりしを以て大なる喞筒を使用したり
尚ほ現今に於ても、時々或る母岩の破れ目より出水を増加することあるを以て、比較的大なる喞筒を使用せり 

撰炭 

假選炭機一臺、萬斛四臺、手萬斛十二臺を以て塊・粉を区分す
假選炭機は長六間・幅三尺にして、原動機として十吋「スペシャル」喞筒を利用変造し蒸汽力に依り運転せしむ 

運搬 

坑内運搬は、主要運搬坑道には鐵道(幅員一呎八吋、軌道の重量十四對度)を敷設し、四十間乃至六十間毎に水平道(俗に云ふ金片)を設け、是れ亦鐵道
(幅員一呎八吋、軌道の重量十二對度)を敷設し、八百斤入り炭車に依り人力にて捲立に押出し、坑外に据え付けある捲揚機に依りて坑外に曳き揚く
坑外運搬は汽力を用ひすして、坑内より捲揚けたる炭車の儘、坑口より選炭場迄人力に依り運搬す 

出炭 

M.40--90,294t、M.41--55,325t、M.42--69,550t、M.43--87,448t 

坑夫 

( M.43--坑内--男198人・女54人・幼2人・計254人、坑外--男54人・女19人・計73人 ) 

 

 

 

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明治39年--岩崎炭礦 

名称 

福岡県採掘登録--第二八八号  福岡県遠賀郡長津村--岩崎炭礦  鉱業人--岩崎久米吉 

沿革 

 明治二十八年中、岩崎久米吉始めて鉱区の採掘特許を得、翌二十九年七月中其の隣鉱区(當時、中西七太郎・蔵内次郎作両共有)
の内一部を限り採掘契約を結び、此處に第一坑開鏧工事を起したり、是實に本坑の第一着工事にして、同年十一月中第一坑の着炭を待ち
更に第二坑を開鏧し、三十年三月着炭を見たるものにして、其後暫次擴張を劃し幾多の鉱区を合併し、三十八年三月中第三坑を開鏧し経営今日に至れり

地理 

本山は東に帆柱山・福智山・高取山の諸嶺連り、西約八町にして遠賀川の本流、同五町餘にして同支流の堀川あり
堀川は長津・水巻・折尾の諸村を経て洞海に入る、西二十町餘にして中間驛、北約二哩にして本支線の分岐点なる折尾驛あり
南二十五町にして木屋瀬に達すべく、而して遠賀川を隔てて植木町と相對せり

採礦 

當坑は三尺及五尺層を採掘しつつあるものにして、之が方法は炭層傾斜面に沿ふて幹線路を作り運搬を兼ねしむ、然して右に蒸汽道を作り排水排氣を兼ね
左右五十間を隔て走向線に沿ひて水平坑道を作り通氣を兼ねしむ、就中水平坑道に於ては、五間乃至七間を隔て昇降の坑道を設け、各切羽の運搬路とす
尚ほ上下延び及五十間毎に小坑道を穿ち通氣便に供す、切羽は長壁法を以て採掘す、排水用として設置したる喞筒左の如し
 「スペシャル」式十八吋のもの十一臺、同十六吋二臺、同十四吋四臺 

撰礦 

 撰礦は桟橋(貯炭場)各所に打流し「萬石」を附し塊・粉を別て、其塊は更に人力を以て硬炭の撰り除けをなす

出炭 

M.36--104,487t、M.37--76,771t、M.38--93,907t、M.39--107,119t 

坑夫 

( M.38--坑内--男315人・女115人・計430人、坑外--男21人・女5人・計26人 ) 

   

 

明治41年--岩崎炭礦 

名称 

福岡県採掘登録--第二八八号  福岡県遠賀郡長津村--岩崎炭礦  鉱業人--岩崎久米吉 

採礦 

當坑は三尺・五尺及上鶴層を採掘しつつあるものにして、之が方法は炭層傾斜面に沿ふて幹線路を作り、運搬通氣を兼ねしむ
然して右には蒸汽道を作り排水排氣を兼ね、左右五十間を隔て走向線に沿ひ水平坑道を作り通氣を兼ねしむ、就中水平坑道に於ては、
五間乃至七間を隔て昇降道を設け各切羽の運搬路とす、尚ほ上下に延ひ延び及五十間毎に小坑道を穿ち通氣の便に供す
而して切羽は長壁法を以て採掘す、排水用として設置したる喞筒左の如し、「スペシャル」式十八吋のもの十一臺、同十六吋二臺、同十四吋四臺 

撰礦 

撰礦は桟橋各所に打ち流し、萬斛に付して塊・粉を別て、其塊は更に人力を以て硬撰り除きを為す 

 

 

 

明治43年--岩崎炭礦 

名称 

福岡県採掘登録--第二八八号  福岡県遠賀郡長津村--岩崎炭礦  鉱業人--岩崎久米吉 

沿革 

四十二年十一月長津村大辻に風道坑第四坑を開堀し経営今日に至れり、中間驛より當坑及香月に至る運炭専用の支線約二哩敷設しあり 

地質 

本鉱区内地殻を構成する地層は、第三紀夾煤層にして砂岩・頁岩の互層より成り、而して此等に夾在せる炭層にして、是れが採掘に堪ゆへき主要炭層は
三ヅル炭・三ヘダ炭・四ヘダ炭並に高江炭の四炭層なり、地層を構成する岩石の襞開面は、概ね南北に走り香月村楠橋字井手原及黒川に露頭を顕し
北東に傾き即ち本鉱区に向て傾斜す、三ヘダ三尺層は其厚さ夾雑物共三尺五寸、四ヘダ五尺層は厚さ四尺八寸、尚ほ一尺二寸以上二尺砂質頁岩の下
一尺三寸以上二尺の石炭を有し、三ヘダ三尺層以下一百四尺の下底に存在す、高江炭層は四ヘダ五尺層の下部一百四十尺に位置し、層厚二尺六寸餘あり
該三層共走向百四十三度、東北に十度を以て傾斜す、本鉱山の第二坑口より深部三百八十間の處に上り一百尺の断層あり
其附近に三四尺の小断層あるの外変動を認めず、四炭層共に鉱区全部に含有せり 

採礦 

本鉱山採炭の方針は、従来採掘せし三尺・五尺乃至上ツル三尺炭を採掘せるものにして、是が採掘方法は長壁法等にして
一水平坑道を基線とし、昇卸共炭柱六間乃至七間を残存し、是より上下共に幅二十尺乃至三十尺を以て一切羽面とし、卸十五間・昇二十五間を稼業せしむ
各稼業面間には三十尺餘の塀壁を作り、適宜の間数に於て通気用目抜を穿ち、規定の位置に達せし時は残壁を採取しつつ指定場所迄は拂戻らしむ
是か採掘跡は自然の厭潰に待つ、亦運搬坑道は炭層傾斜面に沿ひ幹線路即ち本卸を作り、炭層面間五十間毎に十字線路即ち走向線に依り
水平坑道を進掘せしめ、同坑道に於ては、六間乃至七間毎に幅六尺の昇坑の稼行面の入口を作り、上下共五間を置き、水平道に並行一坑道を穿ち
是より切羽面と為す、該坑道は坑夫の運搬路たらしむ、通気路は本卸を入氣幹線路とし、右に七間乃至八間の炭柱を置き
平行坑道を掘進せしめ排気幹線坑道と為す、即ち蒸気卸なり、支線路は各水平坑道に依り分流なし、前記稼行面入口及塀壁間の目抜を通路とし
切羽面の最端に沿ひ暫次切羽面に放流せしむ、亦五十間毎に水平坑道と水平坑道との連絡を採り分流路と為す
後部の不用目抜並に入口には、板亦は硬石を詰め漏気の逸流を防かしむ、採掘跡の漏気及廃気は硬石積若くは席莚を以てし、尚漏気の患ある場所は
板亦は麻布を以て囲ひ粘土を用い目塗を為さしむ、汚気は蒸気熱を有する坑道より坑外に排出せしむ、排水は各水平坑道を以て自然排水と為し
場所に依り本卸に溝亦は箱桶を作り喞筒座水面に放流せしむ、喞筒座は前記蒸気卸に於ける水平坑道の口に作り、距離は高程差百五十尺乃至二百五十尺とし
一の喞筒座を定め、蒸気力を以て喞筒座間乃至坑外に排出せしむ、蒸気管及排水管は蒸気卸に這通し、熱気を利用し廃気の排通を幇助せしむ
通気量--第二・第三坑--給気-三萬九千五百○八立方尺、第二竪坑・第四坑--排気-四萬四千九百○八立方尺、排水量-六十五立方尺 

撰礦 

選炭の方法は、桟橋より打流し萬斛を適度傾斜に取付け、搬出せる切込炭を打流し塊・粉の二種に区別し
塊炭に対しては、手選に依り硬石及貫石等を除去す、手選用具は俗に硬打と称するものを使用す 

運搬 

坑内幹線坑道には十二對度軌条、水平坑道には十二對度乃至九對度軌条を敷設す
切羽よりは籠及「スラ」を用い水平坑道迄運び、炭車に積込み手押にて捲立口に出す、是より炭車十乃至八を連結し、汽力を以て坑外に捲揚す
坑外にては、選炭せし石炭を炭車に入れ、其三四車宛を軽便馬車鐵道にて運び、積込桟橋より貨車に積込を為す

出炭

M.40--95,690t、M.41--86,789t、M.42--89,102t、M.43--59,477t 

坑夫 

( M.43--坑内--男269人・女87人・計356人、坑外--男67人・女33人・計100人 ) 

   

 

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明治39年--大辻礦山

名称 

福岡縣採掘登録--第九四号  福岡縣遠賀郡香月村・外二村--大辻礦山  鉱業人--貝島太助 

沿革 

明治十二年中、帆足義方の手を以て開鏧し爾来継続営業の末、同十七年中坑内出水の為め其業を中止し、坑主の変更を見し事業着手に至らず
同二十九年五月貝島鉱業會社の所有に帰し、初めて事業を再興し漸次鉱区を買収し、且其の事業を拡張し以て現況を見るに至れり

地理 

本山は東に筑豊の國境を為せる福智山嶺に對し、源を尺の嶽に發する香月川は区域の南端を貫流し、吉田堀川と合して洞海湾に注ぐ
筑豊線中間驛は西北一里餘、尚九哩にして若松港に達するを得へし、遠賀川流域に近く地勢概ね平坦なれば、車馬舟の交通便利なりとす

採礦 

残柱式に依り手堀とす

撰礦 

萬石により塊・粉の二種に分ち、更に手撰をなす

運搬 

坑内は人力によりて運搬し、坑外は馬力により運搬す 

出炭 

M.36--264,749t、M.37--271,715t、M.38--211,437t、M.39--196,290t 

坑夫 

( M.38--坑内--男669人・女406人・計1,075人、坑外--男26人・女82人・計108人 ) 

   

 

明治41年--大辻炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第五四六号  福岡縣遠賀郡香月村・外二村--大辻炭礦  鉱業人--貝島太助 

沿革 

明治十二年中、帆足義方の手を以て開鏧し爾来継続営業の末、同十七年中坑内出水の為め其業を中止し、坑主の変更を見し事業着手に至らず
同二十九年五月貝島鉱業會社の所有に帰し、初めて事業を再興し漸次鉱区を買収し、且其の事業を拡張し以て現況を見るに至れり 
 

地理 

本山は東に筑豊の國境を為せる福智山嶺に對し、源を尺の嶽に發する香月川は区域の南端を貫流し、吉田堀川と合して洞海湾に注ぐ
筑豊線中間驛は西北一里餘、尚九哩にして若松港に達するを得へし、遠賀川流域に近く地勢概ね平坦なれば、車馬舟の交通便利なりとす 
 

採礦 

採炭法は残柱式にして、本卸及片盤坑道の左右は十間及至十五間の炭柱を存し
坑道は幅九尺及至十二尺とし、切端は幅九尺にして三間及至五間の炭柱を存置し、主に鶴嘴を以て採掘す、通氣は自然通風とす
排水各片盤は自然排水に依り、各所に設けたる水溜に流入せしめ、揚水喞筒を使用して坑外に排出す 

撰礦 

坑内より捲揚けし儘直に桟橋に運搬し、萬斛を通して塊・粉二種に分ち、更に選炭夫に依り硬炭を撰出す 

運搬 

支坑道より人力を以て運出したる鉱車を、汽力捲揚機械に依り選炭場に搬出し、之を精撰したる上、貨車に積込み若松・門司等へ送炭す 

 

 

 

明治43年--大辻炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第四五七〜四五九、五四六号  福岡縣遠賀郡香月村・外二村--大辻炭礦(第一坑・第四坑・分坑・緑坑)  鉱業人--貝島太助

地質 

本鉱区の地質は、第三紀層に属する砂岩・頁岩・蛍岩の互層より成り、主要炭層は上蔓炭・三尺炭・四尺炭・草上炭・高江炭層の五種とす
目下採掘するものは三尺炭・四尺炭・高江炭の三層なり、三尺炭層--厚三尺、走向は約南東四十五度にして傾斜平均十度なり
四尺炭層--厚三尺五寸、高江炭層--厚二尺六寸 

採礦 

採炭法は長壁式・柱房式にして手堀とす、現今採掘炭層は三尺・四尺・高江の三層にして
坑口は八坑、竪坑三坑あり、其内斜坑五坑を以て捲揚用に供し、三坑を排氣排水に兼用す、第一竪坑は人道坑とし、第二・第三を排氣排水に供す
第一竪坑・深さ三百九十尺、第二竪坑・三百八十尺、第三竪坑・百二十六尺なり、通氣方法は凡て自然通氣法に依り、別に機械の設備なし
第一坑一分間平均排気量七三〇〇〇立方呎、第四坑・二六〇〇〇立方呎、分坑・一六五〇〇立方呎、緑坑・一七六八一立方呎なり
排水の方法は各片盤は自然排水に依り、各所に設けたる水溜に流入せしめ、揚水喞筒を使用して坑外に排出す
其量第一坑は一分間平均平常四九立方呎、第四坑は八三立方呎、四坑分坑は四坑へ落す、緑坑は一七立方呎なり 

撰礦 

第一坑は、坑内より捲揚けし儘直に桟橋に運搬し、鐵製萬斛(七分目)を通して塊・粉二種に分ち、更に選炭夫に依り硬炭を撰出す
第四坑・分坑及緑坑は、坑内より捲揚けたる儘直に桟橋に運搬、流板を通し選炭夫に依りて硬炭を撰出す凡て切込炭とす 

運搬 

支坑道より人力を以て運出したる鉱車を、汽力捲揚機械に依り坑外に搬出し、之を精撰したる上、第一坑は直に貨車に積込み
第四坑・分坑は精選したる上、無極索道に依り第一坑・汽車積場へ運搬し、貨車に積込み何れも若松・戸畑へ送出す
緑坑は馬力に依り川端積込場に運搬し、水運に依り若松港へ送出す 

出炭 

M.40--214,978t、(M.41--170,656t)、M.41--370,935t、M.42--412,360t、M.43--354,848t 

坑夫 

( M.43--坑内--男1,332人・女691人・計2,023人、坑外--男379人・女182人・幼28人・計589人 ) 

 

 

 

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明治39年--高江炭礦 

名称 

特許--第五三八・一○八六・一○八七号  福岡縣遠賀郡香月村--高江炭礦  鉱業人--村木剛二 

沿革 

明治十七年中、則末周輔鉱区の採掘特許を得て四ヘダ炭層に開坑し、諸機械を装置して一時隆盛なりしも、同二十四年中未曾有の大洪水の為め
坑内全部浸水し一旦中止の已むなきに至りたり後、二十六年中・高江筋に開坑し、前記四ヘダ坑の諸機械を移して採掘せしも事業甚く振はすして
坑主の変更ありて、明治三十年中・中西七太郎の所有となり、大に事業を整理して更に之を拡張し
三十七年中現鉱業権者の有に帰し、爾來継続現状を見るに至れり 

地理 

本山は東北に小峰福智の諸嶺連り、笹尾川南西に流れて遠賀川の支流掘川に達す、西一里にして植木町あり
区域の東北端には、木屋瀬町より黒崎町に通ずる國道の縦断せるあり、車馬の交通甚だ便利なり 

採礦 

採炭に於て、前記村内大字楠橋小字中ノ坊・宮田・中尾ノ上・緑の四民有地内に五箇所の運搬斜道を開鏧し、之に伴い通風排水坑道を平行に開鏧し
人力に依り石炭の採掘を施業し、各運搬坑に横置式捲揚機械を設置し、坑内各部に於て炭車に函詰したる石炭を、蒸気カに依り坑外に搬出するものとす
通風は當に新鮮なる大気を流通循環せしめ、坑内湧水は「スペシャル」式喞筒大小二十一臺を据付け、各鐵管を坑外迄配置し又蒸気カに依り坑外に排水す 

撰礦 

當石炭は切込を以て概ね販売するが故に、人夫をして當に撰炭せしむ
但鐵線製一吋平方櫛「萬石」を設備しあるを以て、人カに依り塊・粉に分ち精撰する場合あり 

運搬 

坑内に於て採掘したる石炭を、軌道上なる炭車函に詰め、人力に依り運搬斜坑捲揚迄搬出し、捲揚機に依り坑外に搬出し
而して軌道上を馬力を藉て笹尾川端に運炭し、之より人夫をして「艜-ひらた船」に積込み若松港へ輸送す 

出炭 

M.36--40,435t、M.37--40,961t、M.38--57,766t、M.39--133,506t 

坑夫 

( M.38--坑内--男120人・女45人・幼5人・計170人、坑外--男40人・女15人・計55人 )

 

 

 

明治41年--大辻炭礦・第四坑

名称 

福岡縣採掘登録--第四五七〜四五九号  福岡縣遠賀郡香月村--大辻炭礦・(第四坑・第四坑分坑)  鉱業人--貝島太助 

沿革 

明治十七年中、則末周輔鉱区の採掘特許を得て四ヘダ炭層に開坑し、諸機械を装置して一時隆盛なりしも、同二十四年中未曾有の大洪水の為め
坑内全部浸水し一旦中止の已むなきに至りたり後、二十六年中・高江筋に開坑し、前記四ヘダ坑の諸機械を移して採掘せしも事業甚く振はすして
坑主の変更ありて、明治三十年中・中西七太郎の所有となり、大に事業を整理して更に之を拡張し
三十七年中・村木剛二の有に帰し、爾來事業を継続せしか、四十年九月現鉱業人之を譲受け以て今日に至る 

地理 

本山は東北に小峰福智の諸嶺連り、笹尾川南西に流れて遠賀川の支流掘川に達す、西一里にして植木町あり
区域の東北端には、木屋瀬町より黒崎町に通ずる國道の縦断せるあり、車馬の交通甚だ便利なり 

採礦 

採炭の方法は残柱式にして、四間乃至五間の炭柱を存置し、専ら鶴嘴を以て採掘す
通氣は自然通氣とす、排水は各片盤共自然排水に依り、各所に設けたる水溜に流入し、揚水喞筒を使用して坑外へ排水す 

撰礦 

坑内より捲揚げたる儘直に桟橋に運搬し、萬斛を通して塊・粉に分て
尚ほ撰炭夫に依りて硬炭を撰出し、更に塊・粉の二種を混合して切込炭と為す 

運搬 

支坑道より人力を以て搬出したる鉱車を、汽力捲揚機に依り坑外に搬出し
第四坑は之を精撰したる上、馬力に依りて大辻一坑・汽車積場へ運搬し、貨車に積込み若松・戸畑へ送出す、
第四坑分坑は精撰したる上、馬力に依りて川端積込場に運搬し、水運に依りて若松港へ送出す 

出炭 

M.39--133,506t、M.40--148,268t、M.41--200,279t 

   

 

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明治39年--木屋瀬炭礦

名称 

詩許--第一〇九五号  福岡県鞍手郡木屋瀬町・遠賀郡香月村--木屋瀬炭礦  鉱業人--有馬秀雄

沿革 

當地方は藩政時代より石炭の利用を知り、田野山間の嫌なく地方人は所謂狸掘的の採掘を為し、自家燃料に供したるの事跡は各所に古坑の
存在を以て知ることを得るも發見年代は詳ならず、明治二十二年頃、加藤周助・松尾利貞・中西七三郎の三名共同して採掘を経営し
三十年に至り加藤周助の有となり、三十五年遂に現鉱業権者帰し以て今日に至る 

地理 

本鉱山は、九州鐵道・筑豊支線・筑前植木驛より約一里東方に位する舞嶽山の西麓に位し、其の区域は鞍手郡木屋瀬町大字金剛の大部分を占め
南は同町大字野面・笹田・深田に及び、北は遠賀郡香月村大字馬場山・楠橋に跨る、大字笹田の南に福地山あり東は舞嶽山を経て
北は遠賀郡黒崎町帆柱山に連り、縣道は大字金剛より北約十二町を距つる香月村を東西に横断し、東は小倉を経て大分縣に達す
而して鉱区の南は頓野村に境し、隣鉱区本高江炭坑あり、西は直方驛及新入炭坑を遠望し、遠賀川は其の中間を流れて玄界洋に注ぐ 

採礦 

採炭法は總て手掘にして、採炭の器具としては唯鶴嘴・鋸・斧の外他機械を使用せず、眞卸より五十間以上六十間以内に金片を付け
金片より金片の中央に左右十間以上の炭柱を残し人道坑を貫通し、金片左右には十間以上の炭柱を残し、下方より上方に亦上方より下方に向け
漸次拂堀をなし、其採掘の跡は松木を以て木積を為し上盤の墜落を防ぎ、掘進するに従ひ適宜硬石を以て塡充しつつ進行するものなり
坑内排水用として左の喞筒を設置す、二十吋「スペシャル」二臺、十八吋「スペシャル」一臺 

撰礦 

桟橋に萬石を設置し撰礦するものなり 

出炭 

M.36--37,281t、M.37--32,098t、M.38--43,260t、M.39--89,855t 

坑夫 

( M.38--坑内--男201人・女150人・幼19人・計370人、坑外--男7人・女3人・幼2人・計12人 ) 

 

 

 

明治41年--木屋瀬炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第五〇八号  福岡県鞍手郡木屋瀬町・遠賀郡香月村--木屋瀬炭礦  鉱業人--惠木岩吉 

採礦 

採炭の方法は總て手掘にして、採炭の器具・鶴嘴・鋸・斧の外他に機械を使用せず
坑内採掘跡は松木を以て木積し上盤の墜落を防ぎ、掘進するに従ひ適宜硬石を以て塡充す 

撰礦 

切込の儘販賣するも、硬炭は人力を以て撰出す 

運搬 

坑内運搬は捲揚機械を使用し坑外に引揚げ、亦坑外に在りては鐵道馬車にて船積所迄既設鐵道に依り運搬す 

 

 

 

明治43年--木屋瀬採炭 (株)

名称 

福岡縣採掘登録--第一○一・五〇八号  福岡県鞍手郡木屋瀬町・外一村--木屋瀬採炭株式會社鉱業所  鉱業人--木屋瀬採炭株式會社 

沿革 

本鉱山は始め加藤周助之を経営せしか、明治三十五年以後に於て鉱業権の全部は惠木岩吉に移り、爾来三尺炭層及四尺炭層を採掘し来り
四十三年一月當會社 鉱業権全部の譲渡を受け、新に高谷炭層を採掘し、三尺炭層は之を中止せり 

地質 

走向は北三十五度西にして、東南に進むに従い東に偏するの傾あり、傾斜は東五十五度・北に向い七度乃至十度迄なり
炭層は鉱区の西南境界線を離るること二三丁にして僅少の露頭を有し、最上層を上弦炭と称し、炭層高五尺三寸似内三枚の夾雑層を除けば純炭層は四尺弱なり
之より垂直下五十尺にして三尺層あり、高五尺四寸内夾雑層を除けば純炭層は三尺五寸なり
實に之より百十七尺にして四尺層あり、高六尺夾雑層を除き純炭層は四尺に近し、尚ほ下ること八十尺に新三尺層あり、二層より成り純炭層は二寸・六寸あり
以下三十尺に高江層あり、二尺二寸の本層及四寸・一尺の二層の三層より成る 

採礦 

各片磐間を四十間とし其片磐を長壁法に依り、鶴嘴「クサビ」等を以て手掘採炭を為す、採掘跡には硬石を充填して進掘し
亦片磐坑道には保存壁をも残さざるを以て、片磐両側に対して木積を為す、坑口の種類・名称・用途
第一坑本卸・同竪坑・第二坑本卸・第三坑本卸・同排気坑・高江坑本卸・同排気坑、各本卸は通路・運搬並に入氣路にして
排気坑及竪坑は排水及排気に用ふ、通気は喞筒に通ずる蒸汽鐵管より発散する蒸汽の為め自然通風を為す
排水は二十吋五臺・十八吋一臺・十二吋一臺を以て卸底より切下一片に上げ、之より第一・二・三坑全部の水を右三片に上げ坑外に排出す 

撰礦 

坑内より出したる石炭は、萬斛に掛けて塊・粉に分ち、手選に依り二号炭及硬石を除去し、塊・粉亦は切込炭として市場に出す 

運搬 

採炭場より橇を以て金片磐坑道に運び、之より炭車にて軌道上を本卸坑道に出て、捲揚機に依り坑外に出す
尚ほ二・三坑は、之より坑外捲卸し機械に依り、本坑選炭場に来り選炭の後、馬車鐵道に依り舟積場に運搬 

出炭 

M.40--55,213t、(M.41--84,476t)、M.41--131,957t、M.42--111,244t、M.43--68,969t 

坑夫 

( M.43--坑内--男371人・女194人・幼24人・計589人、坑外--男127人・女84人・幼9人・計220人 ) 

 

 

 

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明治43年--大隈炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第壱九壱号  福岡縣遠賀郡香月村・外二村--大隈炭礦  鉱業人--岩崎久米吉・外三名 

沿革 

本礦発見の時代詳かならざれとも、遠き以前より村民等露頭附近を採掘したることは、無数の古坑あるに依りて之を推知することを得へし
明治十五年の頃始めて坑口を開鑿し多量の出炭を見しが、同二十九年以降中西七太郎経営中、三十四年に至り岩崎久米吉と協同し事業見るべきに至れり
然るに河水氾濫の際区域内に散在せる無数の廃坑陥没して、坑内浸水し休業の悲運に遭遇せしも、三十九年以降漸次盛況を呈するに至れり 

地理 

本礦は香月運炭線路の終端、遠賀川支流の堀川水路の東岸に位置し、丘陵起伏の間に黒川の貫流するあるを以て
水陸共に運搬の便あり、亦若松市場は約五里に過ざるも現今は主として水路に依り同方面に送炭なり 

地質 

砂岩頁岩の互層より来る第三紀夾煤層にして、其地層整然として変化少なく、且つ鉱区内著しき断層の存在を認むること無し
岩層は高江層を最下底とし、其上位に草上・マテガラ・四ヘダ五尺・三ヘダ三尺等あれども
現今採炭せるは高江層・厚さ三尺二寸にして、炭層の走向四十五度、傾斜十二度なり 

採礦 

採炭の方法は長壁法に依る、主要坑道の両側は保存の為め四十五尺乃五十尺の炭柱を残し坑道の保全を存し
採炭は凡て鶴嘴を用い手掘にして火薬を使用せす、入氣及捲揚斜坑道--深さ五百六拾間、排氣及排水斜坑道--深さ五百五十四間
通風の方法自然通気にして、一分時間九千五百立方尺の空気を吸収し、左右各採炭場に配給し捨氣道より排出せしむ
排水の方法三段揚水にして、一分時間の排水量--八十立方尺

撰礦 

手選にして別に機械の装置なし、悉く地区炭として送出し塊粉に区別することなし 

運搬 

坑内は各片盤に運炭軌道を敷き、四輪車にて人力に依り本卸し坑道に運び、蒸気捲揚機にて坑外貯炭場に搬出す、其の延長三千三百尺なり 

出炭 

M.41--23,401t、M.42--29,668t、M.43-54,597t 

坑夫 

( M.43--坑内--男299人・女130人・計429人、坑外--男66人・女28人・幼10人・計104人 ) 

 

 

 

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明治43年--大谷炭礦 

名称 

福岡縣採掘登録--第四七○号  福岡縣遠賀郡水巻村・外一村--大谷炭礦  鉱業人--蔵内次郎作 

沿革 

本坑は明治二十七年井地次一郎外二名許可を得、爾後井上正喜・河野脩造・古賀清水の数人を経て
三十一年三月現鉱業人の有に帰し、爾来事業を拡張し以て今日に至る 

地理 

遠賀川の下流の東部、曲川の傍に位置を占め、其の下流江川に入りて
洞海湾と遠賀川の本流に注ぐものとの二水路を利用し、若松・蘆屋の両港に送炭す 

地質 

本鉱区内の地質は第三紀層及沖積層より成立し、炭層の上磐は青色頁岩、下磐は鼠色頁岩にして堅固なり
石炭は臭石五尺層にして東方に傾斜し全区に存在す、其の走向四十五度、傾斜十五度なり 

採礦 

五尺炭を採掘するには、方六間以上の残柱を存置し採炭を為す
横坑口--巾十尺・高さ六尺、方向二十六度、傾斜二十二度にして送氣・運搬を行い、人道をも兼ぬ
横坑排気--巾八尺・高さ六尺、方向二十七度、傾斜二十二度なり、通気法は自然通風にして、一分間一萬五千立方尺以上を排気せしむ
排水は上段中段及卸底の三ヶ所に喞筒座を設け蒸気力に依り、上段は十八吋「スペシャル」喞筒一臺、
中段は十吋「スペシャル」喞筒一臺、卸底は十吋「スペシャル」喞筒一臺を据付け、一分間十立方尺の排水を為す 

撰礦 

坑口貯炭場にて手選を為す外機械等の設備なし 

運搬 

坑外に十二吋横置蒸汽捲揚機一臺を据付け、鉱車の重量三百斤、其容量八百斤なるもの五個を連結して捲揚く
坑外に於ては四百間を馬車にて曲川送炭場に運搬し、更に川艜(ひらた)に依り江川を経て、若松港亦は蘆屋港に送炭す 

出炭 

M.41--20,219t、M.42--47,372t、M.43--58,443t 

坑夫 

( M.43--坑内--男78人・女48人・計126人、坑外--男28人・女26人・計54人 ) 

 

 

** 各炭鉱の鉱山名称は、初期の「○○礦山・炭山」から ⇒ 「○○炭礦」へと変化をしています

** 坑外に於ける運搬は、「馬車鐵道」から ⇒ 「無極索道」(エンドレスロープ)へと変化をしています

用 語 

説 明 

説 明 ・ 記 載 例 

スラ (笊) 

箱底に鉄片を付けた橇 (そり) 

切羽からスラや背負い籠で運び、炭車に積込む (百斤スラ)
小規模の狸掘坑では、坑外まで人力で運ぶ 

萬石 ・萬斛 

金網製の篩 (ふるい) 

鐵線製一吋平方櫛、鐵製萬斛(七分目)、手萬斛 

硬 ・硬石 

ボタ(九州)、ズリ(北海道) 

ボタウチ(硬打)、ボタ山(硬山)

金片 ・金片坑道 

水平坑道の俗称 

主要運搬坑道より、水平道 (俗に云ふ金片) を設け・・・

残柱式 ・柱房式

炭柱式の採炭法 

石炭を採掘する時に、その一部を保安鉱柱として残す採掘法
掘り残した炭柱を、後で採炭する場合もある

長壁式 

炭柱無しの採炭法 

長い切羽面を設け、炭柱を残さずに一方向に掘り進む採掘法
切羽の進行方向により、前進式と後退式がある

斤 

尺貫法で 600g 

重量三百斤・容量八百斤の炭車 (一噸 ≒1,666斤) 

川艜ひらた 

ひらた船 

遠賀川・堀川・曲川・江川.等で石炭運搬に使用 (1萬斤6噸積.等) 



** 各坑道の概略---竪坑・斜坑 ⇔ 中央運搬坑道 ⇔ 水平坑道 ⇔ 卸坑道 ⇔ 片盤坑道(採炭坑道) ⇔ 切羽(採炭現場)--(参照)


1里 = 36町 ≒ 3.93km 

 

1哩 (マイル) ≒ 1.609km 

1町 = 60間 ≒ 109m 

 

1呎 (フィート) = 12吋 ≒ 30.48cm 

1間 = 6尺 ≒ 1.82m 

 

1吋 (インチ) ≒ 2.54cm 

 1尺 = 10寸 ≒ 30.3cm

 

1對度 (ポンド) ≒ 0.4536kg 

 1寸 = 10分 ≒ 3.03cm

 

(幅員一呎八吋、軌道の重量十四對度) 


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香月線と大辻炭鉱の遺構 」 大辻炭鉱・岩崎炭鉱の遺構」  「大辻炭鉱と香月町」  「日炭高松-中鶴炭鉱-大辻炭鉱

 「
大辻炭鉱の歴史-追加分」  「中鶴炭鉱の歴史-追加分」  「中鶴炭鉱の歴史-追加分-2


昭和30年代の日炭高松炭鉱

第一鉱 

第二鉱・大君鉱 

第三鉱

二島鉱 

日炭高松炭鉱の記憶 


更新日--'06/01/21



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