日炭高松炭鉱の歴史 -2 |
日炭高松炭鉱と日炭若松炭鉱 (日本炭礦株式会社・昭和9年〜46年)の
設立から閉山までの歴史です
会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)⇒(S.12-2)日本化学工業(株)⇒(S.12-12)日産化学工業(株)⇒(S.18-4)日本鉱業(株)⇒(S.20-7)日本炭礦(株) |
日本炭礦株式会社の歴史 (昭和9年〜46年) |
( 出炭量-t.) |
西暦 |
和暦 |
主 要 な 変 遷 |
記 事 |
347,296 |
1934 |
昭和 09年 |
7月--三好鉱業(株)と大君鉱業(株) を、鮎川義介の日本鉱業(株)に売却 | 日本鉱業--山田炭鉱を買収 (注-0) |
. |
〃 |
〃 |
7月--(日産コンツェルン)--日本炭礦(株)の設立 |
日本炭礦--粕屋炭鉱を合併 (注-1) |
. |
〃 |
〃 |
日本炭礦・遠賀鉱業所---高松鉱を「日炭高松」、梅ノ木鉱を「日炭梅ノ木」、高尾鉱を「日炭高尾」と呼ぶことになる | |
618,727 |
1935 |
昭和 10年 |
11月--高松第二鉱の開削始まる | 洪水で一鉱と梅木鉱に被害 |
|
〃 |
〃 |
ラッパ型大坑口・ベルト揚炭・選炭機・操車場が建設され始める | |
〃 |
〃 |
古賀・高尾に新式の二階建八軒長屋、共同浴場等が建設され始める (注-2) | ||
778,589 |
1936 |
昭和 11年 |
4月--高松第二鉱--着炭する | 機関紙『日炭高松』を創刊 |
. |
〃 |
〃 |
10月--梅ノ木鉱の閉鎖 |
. |
〃 |
〃 |
12月--山陽無煙炭鉱と山田炭鉱を買収合併 | 一鉱--共栄会館-1000人収容 (第一高松会館) | |
803,237 |
1937 |
昭和 12年 |
2月--日本化学工業(株)に社名変更 | 二鉱--親和会館-3000人収容 (第二高松会館) |
〃 |
〃 |
4月--相浦・矢岳炭鉱を買収合併 | ||
〃 |
〃 |
6月--高尾鉱の閉鎖 | 高松幼児園を開園--分園10箇所 | |
〃 |
〃 |
7月--日中戦争が始まる | 日本産業(株)--満州へ進出--(満州重工業開発) | |
〃 |
〃 |
12月--日産化学工業(株)に社名変更 (注-3) | ||
1,105,286 |
1938 |
昭和 13年 |
高尾区・梅木区・高松区・片山区社宅に巡査駐在所を設置 | 国家総動員法 若松で人造石油製造事業 (注-4) |
1,337,002 |
1939 |
昭和 14年 |
4月--二島斜坑を開坑 粕屋炭鉱を売却 | 国民徴用令 朝鮮からの集団移住 |
1,543,837 |
1940 |
昭和 15年 |
日本炭礦中央病院の本館を新築・病棟を増築 (注-5) | 水巻町制施行--27,325人 |
〃 |
〃 |
12月--高松第三鉱を開坑 | 第二鉱のみで年産100万トン達成 | |
1,087.440 |
1941 |
昭和 16年 |
9月--第1竪坑の完工 | |
〃 |
〃 |
12月--太平洋戦争が始まる | 石炭統制会の設立 | |
907,847 |
1942 |
昭和 17年 |
3月--高松第三鉱--着炭する | |
1,013,269 |
1943 |
昭和 18年 |
2月--第一鉱に常磐坑を開坑 相浦炭鉱の休止 | |
〃 |
〃 |
4月--日本鉱業(株)に合併 | ||
〃 |
〃 |
4月--古賀区社宅に捕虜収容所ができる(水巻町牟田) | 8月--捕虜脱走・銃殺事件 | |
〃 |
〃 |
福岡俘虜収容所--第6分所・高松炭鉱--日本鉱業・遠賀鉱業所 (注-6) | ||
〃 |
〃 |
第2竪坑の完工 | ||
925,010 |
1944 |
昭和 19年 |
2月--高松第四鉱を開坑 | 浅川に護鉱神社(三鉱山ノ神)を建立 |
〃 |
〃 |
5月--山陽無煙炭鉱を宇部興産に譲渡 | ||
446,105 |
1945 |
昭和 20年 | 4月--矢岳炭鉱を日鉄鉱業に譲渡 | |
|
〃 |
〃 |
7月--日本炭礦(株)の設立--(日本鉱業から独立して再設立) | |
〃 |
〃 |
8月--太平洋戦争が終わる |
十字架の塔 | |
〃 |
〃 |
12月--労働組合を創立--当初は5組合 | 労働組合法の公布 | |
479,083 |
1946 |
昭和 21年 |
3月--日炭高松労働組合連合会を結成--5組合を統合 | 16歳未満・女性の鉱内就業禁止 |
〃 |
〃 |
5月--日炭高松労働組合と改称 | 傾斜生産方式の閣議決定 | |
〃 |
〃 |
第四鉱--着炭する | ||
589,852 |
1947 |
昭和 22年 |
3月--常盤坑の開坑再開 | 鉱員社宅の新築・改築始まる 食料特配 |
〃 |
〃 |
4月--8時間労働制の実施 | 日本国憲法の施行 | |
719,100 |
1948 |
昭和 23年 |
10月--二島斜坑の開坑再開 | 臨時石炭鉱業管理法の施行 |
757,028 |
1949 |
昭和 24年 |
三菱化成と採掘権で対立--瀬板貯水池問題 停年制の実施 | 石炭価格統制の撤廃 水巻町警察署(S.23〜S.29) |
976,000 |
1950 |
昭和 25年 |
6月--朝鮮戦争始まる レッドパージ始まる | 鉱害復旧法の成立 特需ブーム |
1,030,400 |
1951 |
昭和 26年 |
4月--高松第五鉱を開坑 | |
〃 |
〃 |
7月--高松生活協同組合を創立 | カッペ採炭法の導入--鉄製の柱・梁の使用 | |
888,032 |
1952 |
昭和 27年 |
5月--日本炭礦(株)の経営--鮎川から菊地に変わる (注-7) | |
〃 |
〃 |
6月--浅川・第三竪坑の完成 | ||
〃 |
〃 |
10月--炭労63日間のストライキ | 重油の統制解除 | |
961,469 |
1953 |
昭和 28年 |
4月--二島鉱--着炭する 第4竪坑の完成--800m | 九州北部に大水害 |
〃 |
〃 |
二島鉱・第二鉱・第五鉱が坑内で貫通 | ||
〃 |
〃 |
7月--第四鉱の閉山 | ||
〃 |
〃 |
10月--人員整理案1,185人--希望退職者1,280人 | 炭鉱不況 | |
992,715 |
1954 |
昭和 29年 |
6月--日炭相浦鉱の閉山 | 高松幼児園の園児数が日本一に (注-8) |
922,108 |
1955 |
昭和 30年 |
石炭鉱業合理化臨時法案の成立 二島鉱に混炭機を設置 (注-9) | 神武景気が始まる |
. |
〃 |
〃 |
メタンガスを三菱化成に供給 | 中小炭坑の閉山続出 |
1,106,355 |
1956 |
昭和 31年 |
3月--大手13社ロックアウトを実施 | |
〃 |
〃 |
常盤坑・第五鉱--着炭する | 二鉱ボタ山で低品位炭の回収開始 | |
1,482,090 |
1957 |
昭和 32年 |
1月--第一・高松・大君・二島・山田の各鉱業所で独立採算制を実施 | 石炭科学研究所の設立 |
〃 |
〃 |
1月--航空自衛隊の要請で二鉱ボタ山の山頂部を削る | 家庭用・袋詰炭の販売開始 | |
1,401,731 |
1958 |
昭和 33年 |
9月--二島鉱と第三鉱が貫通 | 石炭不況 |
〃 |
〃 |
二島鉱の斜坑から揚炭を始める | エネルギー革命 | |
1,374,999 |
1959 |
昭和 34年 |
日本炭礦野球部--都市対抗野球大会に出場 (日炭オール高松) | 炭鉱離職者臨時措置法の公布 |
〃 |
〃 |
山田炭鉱から日炭高松に配置転換 | 岩戸景気始まる | |
〃 |
〃 |
10月--日炭山田鉱の閉山 ボルネオ開発計画 (注-10) | 黒い羽根募金スタート | |
〃 |
〃 |
大相撲水巻場所開催 | ||
1,489,810 |
1960 |
昭和 35年 |
三池争議の発生--311日ぶりの就労 | 水巻町の人口のピーク |
〃 |
〃 |
安保闘争の激化 | ||
1,162,560 |
1961 |
昭和 36年 |
3月--合理化案提示--職場規律等 | 原油輸入自由化方針 |
〃 |
〃 |
5月--第一次合理化闘争--(作業量改訂・賃下げ)--92日間のストライキ | 産炭地域振興臨時措置法の公布 | |
〃 |
〃 |
国鉄水巻駅の開業・新国道3号線の開通 日炭野球部の解散 | 住友忠隈・日鉄潤野の閉山 | |
1,751,050 |
1962 |
昭和 37年 |
3月--第二次合理化闘争--(大君閉山・配転等) | 合理化法の改正--買収から閉山交付金へ |
〃 |
〃 |
4月--二島鉱・第5竪坑の完成--1014m | 産炭地域振興事業団法の公布 | |
〃 |
〃 |
6月--大君鉱業所の閉山 ビルド鉱Bクラス指定 | スクラップ・アンド・ビルド政策開始 | |
1,673,400 |
1963 |
昭和 38年 |
2月--第三次合理化闘争--(病院・物資課分離)--1,150人の合理化案 | 北九州市の合併 |
〃 |
〃 |
3月--施業案を福岡通産局に提出 8月--62人に指名解雇通知 | 石炭関係4法案の成立 | |
〃 |
〃 |
三池三川鉱で坑内爆発--死者458人、一酸化炭素中毒822人 | 日鉄二瀬・三井山野の閉山 | |
〃 |
〃 |
11月--第四次合理化闘争--(出炭体制強化・賃下げ)--一時撤回--再提案 | 三菱新入・国鉄志免の閉山 | |
1,525,900 |
1964 |
昭和 39年 |
11月--第三鉱・第6竪坑の完成 | 三井田川・大正鉱業の閉山 |
〃 |
〃 |
11月--長期採掘施業案の不認可 | 配給所をニッタン商事マーケットに | |
〃 |
〃 |
12月--第五次合理化闘争--(施業案不認可) | ||
1,167,900 |
1965 |
昭和 40年 |
2月--日本炭礦が縮小計画を検討 | 通産省が調査団を派遣 |
〃 |
〃 |
3月--第二鉱・採炭中止 | ベントナイトの採掘 (注-11) | |
〃 |
〃 |
5月--第一鉱閉山と2,088人の人員整理案 | 山野炭鉱でガス爆発--死者237人 | |
〃 |
〃 |
6月--5人が抗議の30日間坑底座り込み | 麻生上三緒の閉山 | |
〃 |
〃 |
7月--再建基本協定決定--希望退職応募者--約2,500人 | 退職予約者 | |
1,079,500 |
1966 |
昭和 41年 |
2月--第一鉱業所の閉山 | 三菱鯰田の閉山 |
〃 |
〃 |
6月--若松鉱業所の開所--(日炭若松炭鉱) | 11月-古賀団地・高尾団地の造成開始 | |
1,738,800 |
1967 |
昭和 42年 |
三池三川鉱で坑内火災--死者7人--一酸化炭素中毒437人 | みずほ団地・吉田工業団地の造成開始 |
1,921,800 |
1968 |
昭和 43年 |
海底炭田・筑豊露天掘の開発構想持ち上がる | 吉田団地の建設開始 |
1,574,578 |
1969 |
昭和 44年 |
5月--浅川鉱業所の閉山 | 麻生産業・明治鉱業の閉山 |
1,318,000 |
1970 |
昭和 45年 |
発電所用石炭の取引中止・削減の動き | 大気汚染防止等公害規制法案 |
1971 |
昭和 46年 |
3月--若松鉱業所の閉山 | ||
〃 |
〃 |
3月--日本炭礦(株)の閉山 | ||
1972 |
昭和 47年 |
水巻町マスタープラン 水巻中学校の新築移転 | ||
1973 |
昭和 48年 |
水巻町土地開発公社の設立 | ||
1974 |
昭和 49年 |
高松団地の建設開始 | ||
1975 |
昭和 50年 |
梅ノ木団地の建設開始 | ||
2005 |
平成 17年 |
9月--日本炭礦事務所跡が解体・撤去される | <参照> | |
2006 |
平成 18年 | 1月--堀川歴史公園の貴重な鑿跡が消失される | <参照> | |
2007 |
平成 19年 | 2月--鳳炭坑の蒸気捲揚機台座跡が破壊される | <参照> |
日本炭礦(株)の各鉱業所の変遷 |
遠賀鉱業所 |
(出炭開始) |
遠賀鉱業所 |
昭和32年 |
⇒⇒ |
昭和41年 |
昭和42年 |
昭和43年 |
昭和44年 |
昭和45年 |
昭和46年 | |
日炭高松 |
昭和09年07月 |
第一鉱 |
⇒⇒ |
第一鉱業所 |
⇒⇒ |
2月-閉山 |
. | ||||
|
昭和31年03月 |
常盤坑 |
⇒⇒ |
第一鉱業所 |
⇒⇒ |
2月-閉山 |
. | ||||
|
昭和11年07月 |
第二鉱 |
⇒⇒ |
高松鉱業所 |
S.40-中止 |
. | |||||
|
昭和17年03月 |
第三鉱 |
⇒⇒ |
高松鉱業所 |
⇒⇒⇒ |
浅川鉱業所 |
5月-閉山 |
. | |||
|
昭和21年05月 |
第四鉱 |
S.28-閉山 |
. | |||||||
|
昭和31年10月 |
第五鉱 |
⇒⇒ |
大君鉱業所 |
S.37-閉山 |
. | |||||
|
昭和30年02月 |
二島鉱 |
⇒⇒ |
二島鉱業所 |
⇒⇒ |
若松鉱業所 |
⇒⇒⇒⇒ |
3月-閉山 | |||
日炭高尾 |
S.12-閉鎖 |
. | |||||||||
日炭梅ノ木 |
S.11-閉鎖 |
. | |||||||||
山田鉱業所 |
⇒⇒⇒ |
山田鉱業所 |
S.34-閉山 |
. |
|
|
注-0 |
山田炭鉱 の歴史---大正10〜13年頃の開坑、昭和09年01月--日本鉱業(株)が野上鉱業・山田炭坑を買収し、山田炭礦(株)を設立 |
|
昭和11年12月--日本炭礦(株)に合併、 昭和34年・10/30--閉山 |
|
. |
注-1 |
粕屋炭鉱の歴史---明治32年-開坑〜M.36、明治42年-北崎鉱として再開〜T.3、大正06年-(久原鉱業)粕屋炭鉱・志免坑として再開 |
|
大正10年-村井鉱業、昭和04年-日本鉱業(株)が買収、 昭和09年12月-日本炭礦(株)に合併、 昭和15年-閉山 |
|
( 昭和11年当時の出炭量-12万700トン、従業員-3,021人---志免町誌より ) |
|
. |
注-2 |
職員・鉱員社宅の建設---昭和12年迄には、職員用-約100戸、鉱員用-2,156戸が新築される |
|
( 昭和24年---社宅数 6,475戸、寮・合宿 20戸---「整備計画認可申請書」より ) |
|
( 昭和26年---鉱員社宅の電気送電は、夕方6時〜朝7時迄が⇒終日送電となる ) |
|
( 昭和30年頃---鉱員社宅の水道は、各棟の共同水道が⇒各戸へ給水となる ) |
. |
|
注-3 |
昭和12年頃の日産化学工業(株)炭業部---遠賀鉱業所 (第一高松炭鉱・第二高松炭鉱)、粕屋炭鉱、山田炭鉱、相浦・矢岳炭鉱 |
|
山陽無煙鉱業所 (桃木炭鉱・荒川炭鉱・有木炭鉱)、宇部鉱業 (本山炭鉱)の6鉱業所 |
昭和15年---陸軍省に戦闘機 「日産高松号」を献納 |
|
. |
|
|
(矢岳炭鉱--北松浦郡小佐々村--明治36年頃の開坑、昭和3年-矢岳炭礦、12年-相浦炭礦・合併、20年-日鉄鉱業に譲渡) |
|
(相浦炭鉱--佐世保市相浦町--昭和12年-相浦炭礦を設立・合併、13年-開坑、18年-休止、29年-閉山) |
|
(山陽無煙鉱業所--山口県美禰郡大嶺村--明治10年頃発見・長門無煙炭礦、37年-海軍省、大正12年-山陽無煙炭礦) |
|
(昭和11年-山陽無煙炭を設立・日本炭礦に合併、19年-宇部興産に譲渡) |
|
|
注-4 |
人造石油製造事業---昭和13年--低温乾留・水素添加事業の許可--日産化学工業・人造石油部・若松工場 |
|
昭和14年--日産液体燃料(株)を設立 昭和19年--低温乾留炉四基を増設 |
昭和20年--8/8の空襲により若松工場の一部炎上、全面的に操業中止 | |
昭和23年--第一化学工業(株)に改称 | |
|
. |
注-5 |
三好鉱業は、昭和06年01月に三好中央病院を設立---昭和09年07月より、 日本炭礦・中央病院となる |
|
昭和11〜13年--2分院と2診療所を設置、 昭和15年--新館を増築、第1〜3病棟を増築 |
|
昭和34年--新病棟を増築、 昭和46年・3/14--閉院となる |
|
. |
注-6 |
福岡俘虜収容所・折尾分所(水巻分所)---昭和18年04月22日--第15分所として開設、12月--第9派遣所と改称 |
|
昭和20年08月------第6分所と改称、09月--閉鎖 |
|
(昭和20年8月15日現在の収容者数--俘虜情報局/俘虜収容所明細より) |
|
福岡・第6分所--英-117人、米-138人、蘭-764人、濠-41人、加-1人、南ア-1人、合計-1,062人 |
|
収容中の死者74人 (英-11人、蘭-60人、豪-3人) |
|
戦後の戦犯裁判で、逃亡捕虜の殺害で3人に死刑判決 |
|
(福岡俘虜収容所計-10,411人、内地計-32,418人、外地計-71,224人、総計-103,642人) |
|
上記以外に、終戦以前には--学徒動員・勤労報国隊-約1,500人、朝鮮人-約3,500人が就労--(林氏著作より) |
|
(明治専門学校・若松女学校・水巻女子挺身隊・他) |
. |
|
注-7 |
昭和27年05月---日本炭礦(株)の筆頭株主が、日本鉱業(鮎川)から、菊池寛実(高萩炭鉱社長・南悠商社社長)に変わる |
|
戦後の財閥解体(集中排除法)の持株会社整理で、日本鉱業・所有の日炭株式も25年に公開される |
|
. |
注-8 |
昭和12年に開園した高松幼児園は、各社宅街に10箇所の分園があり、29年には園児数2,500名余で日本一となる |
|
( 後に12分園となる--吉田・片山・鯉口・杁・高尾・古賀・梅ノ木・高松・三ツ頭・浅川・二島・道岸 ) |
|
昭和46年の日炭高松の閉山により、47年03月迄に全園が閉園された |
|
. |
注-9 |
三井鉱山と販売提携をおこない、三池炭と混炭して硫黄分の少ない不粘体状として、関西電力等に供給する |
|
昭和31年---二島埠頭に、大型の1号積込機--(三種混炭機)を増設して稼動 |
|
|
注-10 |
昭和34年〜39年に、ボルネオ島サラワクで、強粘結炭 (製鉄・コークス用)の調査・試掘が行われるが |
|
政情不安や濠州炭田の新発見があり、商社・八幡製鉄所等の意向により中止となる |
|
調査中に、カオリン(磁器の原料)が発見されるが、品質・輸送コスト等により中止となる |
|
. |
注-11 |
昭和40年〜57年に、第二鉱跡でベントナイトの採掘が行われ、「ニッタン・ベントナイト」を製造・販売する |
|
二鉱山ノ神の南側では、ベントナイトの露天掘りも一時期行われた |
|
. |
日本炭礦の各坑口の変遷 |
|
(増補水巻町誌より) |
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